中国p站

中国p站100年史

1993年に刊行された「中国p站百年史」を电子化して収録しています(1991年以降の工事と资料编を除く)。
なお、社名?施设名などは、刊行时の表记のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和54年~昭和57年ころ

新たなエネルギーを求めて

相次ぐLNG基地の建设

わが国におけるLNG(液化天然ガス)の本格导入は、东京ガスと东京电力が昭和44年(1969)11月から开始したのに始まる。

LNGは石油危机后に石油代替エネルギーとしてとくに注目されるに至ったが、その供给量は50年度には506万迟であったものが53年度には1,172万迟と倍増し、59年度には2,676万迟とじつに50年度の约5倍に増加した。LNGと同様に50年以降急速に増加したものに原子力があり、50年度に251亿?hだったものが59年度には1,343亿?hとこちらも约5倍の供给量の増加であった。これらを50年度と59年度のエネルギー供给构成比率でみると、LNGは2.5%から9.2%に、原子力は1.5%から7.5%に上昇している。これに対し水力、石油は下降倾向をたどり、石炭は微増にとどまった。

当社が最初に行ったLNG基地建设工事は、46年3月、大阪ガス泉北工场(现?泉北製造所第一工场)に完成した地上式タンク3基の基础工事であった。それから20年、数多くの地上式、地下式タンクを设计?施工で受注し、国内において地上式タンク91基のうち48基(PC外槽式LNGタンク{注1}を含む)、地下式タンク54基のうち8基(ピットイン式{注2}を含む)のシェアを占め、海外においても台湾で地下式タンクを3基建设するなど、LNG基地建设の分野において指导的な地位を确立した(右図参照)。また、多くの実绩をもとに技术开発を积极的に行い、新しい型式のPC外槽式LNGタンクおよびピットイン式地下タンクの开発、実用化にも成功した。

なお、LNGタンクの建设技术については本文450ページに记述している。当社初のLPG(液化石油ガス)基地である岩谷产业堺LPGターミナルも54年3月完成した。

当社のLNGタンク建设実绩(平成4年9月现在)
当社のLNGタンク建设実绩(平成4年9月现在)

注1 PC外槽式LNGタンク:従来のLNG地上式タンク(金属二重殻タンク)にプレストレストコンクリート製防液堤を限りなく近づけて一体化した新しい型式のタンク。

注2 ピットイン式地下タンク:従来のLNG地上式タンクを、防液堤とともに、最高液面が地表面以下になるように地盘に埋设した新しい型式のタンク。基础および侧壁?タンク间の空间部を利用した空気层の断热により、地盘冻结防止管理を行う。

日本海エル?エヌ?ジー新潟基地(1次)第2工区(JV)
<新潟県>昭和57年5月竣工
発注 日本海エル?エヌ?ジー
设计 东北电力、当社
日本海エル?エヌ?ジー新潟基地(1次)第2工区(JV)
<新潟県>昭和57年5月竣工
発注 日本海エル?エヌ?ジー
设计 东北电力、当社
知多エル?エヌ?ジー知多基地
<爱知県>昭和58年1月竣工
発注 中部电力、东邦ガス
设计 中部电力、东邦ガス、当社
知多エル?エヌ?ジー知多基地
<爱知県>昭和58年1月竣工
発注 中部电力、东邦ガス
设计 中部电力、东邦ガス、当社

大阪ガス泉北製造所第一工场?第二工场

大阪ガスでは时代の要求に応えて新しいエネルギー、LNGの导入を决定し、LNG受入れ基地の建设、転换のための切替え作业を开始した。当社は昭和43年(1968)からこの计画に协力し、土木本部设计部、技术研究所など全社を挙げてLNG贮蔵施设の建设に必要な设计?施工技术の研究开発に取り组むことになった。

-164℃という未経験の极低温液化ガスを贮蔵する构造物を建设するにあたっては、コンクリートや鉄筋などの使用材料の低温特性、冷热による地盘の冻结や温度応力など、それまでの一般构造物では考虑されることのなかった问题を明らかにする必要があった。これら技术课题を一つ一つ解决し、设计?施工法の十分な検讨を行って、泉北第一工场のLNG地上式タンクは、地盘が冻结しタンクが浮き上がるのを防ぐために高床式の基础を採用し、また、タンクからの万一の漏液に备える防液堤は3重壁构造とした。着工は45年3月である。こうして地上式タンク(4.5万?)3基が47年3月完成し、47年12月には第1船がブルネイより入港し、近畿におけるLNG时代がスタートした。

続いて第4号タンクの建设を开始することとなった。このタンクは前3基と异なり地下式であった。そこで、建设地と同様の土质构成をもつ堺の埋立地の一角に大阪ガスと共同で実験用タンク(70?)を设け実験を行ったが、この当时、计测に使用する低温用计测器もなく、当社技术研究所を中心として开発を进めながら実験にあたった。

こうして设计?施工法を确立し、47年11月より、新たにソレタンシュ社から导入したケリー60M掘削机で地下54mへの掘削を开始し、1万㎡に及ぶOWS工法による地中连続壁は精度、各パネルの刚结、超音波测定器による异物の判别を含む各种の新技术を生み出し、50年8月に地下式タンク(4.5万?)は完成した。

その后49年9月、泉北第二工场の建设が本格的に开始され、当社は6基のLNG地上式タンク(1基7.5万?)の基础工事をはじめとしてLNG受入れ基地の主要设备を受注、第1期工事が52年6月をもって竣工した。45年3月から52年6月までの请负金は泉北第一工场、第二工场合わせて189亿6,000万円、所长は大村満男(土木工事)と今川邦夫(建筑工事)であった。その后现在までに泉北第二工场で当社はさらに6基のLNG地上式タンク基础を施工し、1基を平成4年9月现在建设中である。

泉北第二工场/7万5,000?LNG地上式タンク6基、気化用放水设备一式、LNG受入れ栈桥(13万5,000迟用)一式、LPG受入れ栈桥(5,000迟用)一式、事务栋、管理栋、PRセンターなど

大阪ガス泉北製造所第一工场?第二工场
<大阪府>昭和52年6月竣工(第1期)
発注 大阪ガス
设计 大阪ガス、当社
工事概要 泉北第一工场/4万5,000?LNG地上式タンク3基、同4万5,000?地下式タンク1基、気化用取水?放水设备一式、LNG受入れ用桟桥(7万4,000迟用)一式、気化设备?圧送设备一式、ICIガス発生炉6基、事务栋、管理センターほか
(写真は平成3年撮影)
大阪ガス泉北製造所第一工场?第二工场
<大阪府>昭和52年6月竣工(第1期)
発注 大阪ガス
设计 大阪ガス、当社
工事概要 泉北第一工场/4万5,000?LNG地上式タンク3基、同4万5,000?地下式タンク1基、気化用取水?放水设备一式、LNG受入れ用桟桥(7万4,000迟用)一式、気化设备?圧送设备一式、ICIガス発生炉6基、事务栋、管理センターほか
(写真は平成3年撮影)

东京电力东扇岛LNG基地第3、6、9号地下式贮槽(第9号のみJV)

东京电力の东扇岛LNGセンターは27?の広大な敷地に9基(1基6万?)の地下式タンクがあり、当社はそのうちの第3号、第6号および第9号(JV)を施工した。

第1弾として昭和55年(1980)6月に第1、第2、第3号を3社が各々ほぼ同时に着手し、6カ月遅れて第4、第5、第6号を同3社で着工、文字どおり3社竞演の工事开始となった。地震时における地盘の液状化防止工事であるサンドコンパクションパイルによる地盘改良から工事は始まったが、当社は最大15机に及ぶ打设机を投入してこれにあたった。

地中连続壁工事では、最深GL-86.5mまで掘削するため、ハイドロフレーズ掘削机を当现场用に新たに2台製作し、在来のケリー机と併用した。このハイドロフレーズ掘削机は予想以上の高精度(垂直精度1/2,000)を発挥し、止水性の高い连壁を构筑した。続いて掘削、侧壁工事を6ロットに分けて逆巻き工法で行ったが、コンクリート打设量はタンク1基当たりで连壁を除いて约1万8,000?に及んだ。その施工では、鉄筋のプレハブ化や、新たに开発した鉄筋取付机による现场组立作业、さらに足场付大型钢製パネルによるスライディング方式の型枠工など机械化、省力化した施工システムを採用した。続いてタンクの底版に约3,000迟の鉄筋を使用し、厚さ7mのマスコンクリートを打设した。これら一连の工程では、连壁、侧壁、底版および周辺地盘の変形、内部応力、作用外力等についてコンピュータを駆使した大规模な计测管理を行い、オンライン処理により随时工事の安全性や品质を定量的に把握し、计测结果をリアルタイムで次段阶の施工に反映させる情报化施工法をとった。

また、当工事では、土木构筑物の施工に加えて、LNG地下式タンク供用后の冷热による周辺地盘の冻结を防止するため、タンク底部および侧壁外周部に设置されるヒーター设备工事も行い、その计画、设计、施工および运転管理计画のいっさいを担当した。

こうして、第3号、第6号タンクとも予定の26カ月で完成し、その后16カ月のタンク内装等の设备工事へ引き渡し、59年9月、2基の工事が完了した。引き続き第9号タンクも叁井建设とのJV(当社が干事会社)で施工し、62年9月完成した。タンクは3基とも内径50.3m、深さ30.7mで、1基当たりの本体掘削は约10万?であった。请负金は第3号、第6号合わせて147亿5,086万円、所长は大井贤太郎である。また、第9号は请负金47亿6,165万円、所长は加藤譲嗣から丹羽正俊に引き継がれた。

东京电力东扇岛LNG基地第3、6、9号地下式贮槽(第9号のみJV)
<神奈川県>昭和59年9月竣工(第3、第6号) 昭和62年9月竣工(第9号)
発注 东京电力
设计 当社
工事概要 6万?LNG地下式タンク3基、内径50.3m、壁厚2.5m、壁高33.9m、地中连続壁4万9,674㎡、コンクリート量10万364?、掘削土量28万9,800?
(左写真の点线部分が当社担当工区、左下写真は第9号タンクの内部メンブレン)
东京电力东扇岛LNG基地第3、6、9号地下式贮槽(第9号のみJV)
<神奈川県>昭和59年9月竣工(第3、第6号) 昭和62年9月竣工(第9号)
発注 东京电力
设计 当社
工事概要 6万?LNG地下式タンク3基、内径50.3m、壁厚2.5m、壁高33.9m、地中连続壁4万9,674㎡、コンクリート量10万364?、掘削土量28万9,800?
(左写真の点线部分が当社担当工区、左下写真は第9号タンクの内部メンブレン)

东京ガス袖ケ浦工场C-3LNG地下式贮槽

东京ガス袖ケ浦工场にはすでに11基のLNG地下式タンクが建设されていたが、この时期、3基の地下式タンクを建设することとなり、当社はそのうちC-3タンクを昭和55年(1980)6月着工した。当タンクは同社から受注した初のLNG地下式タンクで、容量13万?、内径64.5m、深さ40.4mであり、これは当时世界最大のものであった。

当タンク建设は日本钢管が一括受注し、うち土木工事を当社が设计から施工まで一贯して担当し、とくに设计および技术开発では社内にLNG地下タンクプロジェクト?チームを组织してあたった。

地盘改良后の地中连続壁工事では、连壁の深さが98mと当时日本最深のものであったため、着工前に性能确认试験工事を実施し、止水性、强度、精度などの确认およびハイドロフレーズ掘削机の性能、能率、运転法などの调査?検讨やそれに基づくカッター、ポンプ、精度制御机构の改良を行い、本工事に生かした。连壁工事完了后の掘削、侧壁工事では逆巻き工法を採用し、约17万?の掘削土量を8サイクル(各6m)で掘削しては侧壁(厚さ3m)を构筑した。こうして最下底に到达后、约3,300迟の鉄筋と2万4,200?のコンクリートを使用して厚さ7mの底版打设を行った。

施工の机械化、省力化のために导入した数々の改良机やコンピュータを駆使した情报化施工法は、东京电力东扇岛LNG地下式タンクと同様であったが、侧壁、底版完成后、当タンクでは大规模な復水试験を行ったのが大きな特徴であった。この復水试験はディープウェルにより低下させていた地下水を復水させ、底版に设计扬圧力を作用させ、底版の耐力机构について検証することを目的としたもので、地下50mまでの侧壁、底版に50迟/㎡の水圧をかけ、タンクの挙动、耐力および止水性などを确认した。このような大型构造物の実物试験は日本では大変珍しい事例であり、地下式タンクの设计?施工に资する贵重なデータを残した。主たる土木工事は57年10月完了し、屋根工事、机械?内装工事、各种试験?検査を日本钢管が行い、59年4月全工事は完成した。请负金は75亿7,338万円、所长は増田知行である。

东京ガス袖ケ浦工场C-3LNG地下式贮槽
<千叶県>昭和59年4月竣工
発注 东京ガス、日本钢管
设计 日本钢管、当社
工事概要 13万?LNG地下式タンク1基、内径64.5m、壁厚3m、壁高42.3m、地中连続壁2万1,578㎡、コンクリート量2万4,200?、掘削土量17万3,600?
东京ガス袖ケ浦工场C-3LNG地下式贮槽
<千叶県>昭和59年4月竣工
発注 东京ガス、日本钢管
设计 日本钢管、当社
工事概要 13万?LNG地下式タンク1基、内径64.5m、壁厚3m、壁高42.3m、地中连続壁2万1,578㎡、コンクリート量2万4,200?、掘削土量17万3,600?

中国石油LNG地下式贮槽

LNGの备蓄基地を建设することになった台湾は、その设计?施工技术を国外に求め、国际入札に付した。このプロジェクトでは、単なる工事施工ではなく、施设の机能保証を前提とした责任设计?施工が求められ、価格面での审査とあわせて、日本钢管と当社のグループの実绩と技术力が评価されて受注に成功した。

建设现场は台湾の南端、台湾第一の工业都市である高雄市の北方约30㎞の海岸埋立地で、埋立て直后の超软弱地盘に、内径约65m、深さ约35m、容量10万?のLNG地下式タンクを3基同时に施工するという难工事であった。

工事は1986年(昭和61)1月にスタートし、地盘改良工事(サンドコンパクションパイル)、地中连続壁工事(OWS工法)の后、掘削と侧壁构筑(厚さ2.7m)を交互に繰り返す逆巻き工法で土留めの安定を保ちながら床付けを行い、底版(厚さ7.4m)を施工し、最后に侧壁顶部のPC工事をもって土木工事は完了した。

当社は戦前に台湾で银行などの建筑工事やダム、発电所などを施工したが、当工事は事実上约45年ぶりの当地での请负工事であり、当工事を通じたハードの技术移転はもとより、现场の管理手法など现地建设业にもたらしたインパクトも少なくなかった。たとえば、台湾は毎年10回以上の猛烈な台风が接近または上陆し、ときには防波堤をも打ち砕かんほどの荒波が20m以上の高さに及び、1晩でタンク内外が一面海のように冠水する豪雨にも见舞われたが、こうした事态に対しても事前の计画的な対応措置に加えて、不测の事态には当社职员の阵头指挥で防护復旧作业を行い、その被害を最小限に食い止めた。こうして全工期労働延时间约230万时间を通じ无灾害の辉かしい记録を树立し、台湾における土木工事现场の安全管理にも一石を投じた。

タンクの完成は1989年3月であり、请负金は72亿4,686万円、所长は大井贤太郎であった。なお、当工事におけるノウハウは、その后の台北地下鉄の受注へと生かされていった。

中国石油LNG地下式贮槽
<台湾?高雄市>1989年3月竣工
発注 中国石油股有限公司
设计 当社
工事概要 10万?LNG地下式タンク3基、内径64.5m、壁厚2.7m、壁高36.8m、地中连続壁3万6,000㎡、コンクリート量4万3,200?、掘削土量46万4,410?
中国石油LNG地下式贮槽
<台湾?高雄市>1989年3月竣工
発注 中国石油股有限公司
设计 当社
工事概要 10万?LNG地下式タンク3基、内径64.5m、壁厚2.7m、壁高36.8m、地中连続壁3万6,000㎡、コンクリート量4万3,200?、掘削土量46万4,410?

大都市圏の水

わが国の水道整备事业は戦后飞跃的に伸び、昭和30年(1955)には32.2%にすぎなかった全国の水道普及率は、农村地域への普及に伴って52年3月には88.6%に达した。一方、大都市圏での需要量の増大によって新たな水源开発が急がれていたなか、53年5月ころから夏季にかけて西日本一帯が异常渇水に见舞われた。この渇水は首都圏にも及び1都399市町村の各地で断水となり、これは39年の関东地方の大渇水、42年の北部九州、関东の大渇水以来のことであった。そこで新たな「水道法」が53年6月に施行され、早急な水源対策とともに需给の不均衡を解决する広域的水道整备计画が策定されることとなった。

56年の水道普及率は90.3%とようやく9割台へ到达したが、生活水準の向上、生活环境の改善などで、水使用量は増加の一途をたどり、安定した给水を确保するための水资源开発事业は新たな展开を求められていった。

东京の水道は多摩川水系を主としているが、戦前から利根川の水を求めていた。ようやく38年、矢木沢、下久保ダム(ともに他社施工)によってそれが実现、40年代に入って朝霞、武蔵両人工水路によって利根川の水が东京を润すことになった。同水系水道拡张事业として朝霞浄水场も完成し、さらに47年度から実施している第4次利根川水系水道拡张事业の基干施设として、叁郷浄水场の建设が52年に着手され、以来7年有余の年月を経て第1期工事が完成した。

当社はこの朝霞浄水场や叁郷浄水场(JV)の建设に携わり、叁郷浄水场建设では、地下50mに及ぶ超软弱地盘を克服した施工管理技术に関して土木学会技术赏が授与された。50年代に首都圏での上水道に関する施设として当社が施工した代表的なものは、このほかに、东京都本郷给水所、水资源公団房総导水路横芝工区、东京都荒川区荒川8丁目町屋2丁目地先工业用水道送水管、北千叶広域水道公司団北千叶浄水场、千叶県松戸给水场などがあった。これに先立ち、神奈川県広域水道公司団导水路トンネル第6工区の大规模な工事も48年6月に完成している。

近畿圏では、宝塚市川下川贮水施设および取水导水施设(川下川ダム)(JV)、大阪府営水道送水管第12の2工区、第23の2工区、19工区(JV)、兵库県猪名川広域水道送水隧道川西工区、大阪府村野阶层浄水场2号栋(JV)、阪神水道公司団大道导水路第1工区(JV)などがあり、中京圏では爱知県西叁河水道幸田浄水场、名张市富贵ケ丘浄水场がその代表的な工事であった。

このほかに冈山県御津町、和歌山県那智胜浦町、栃木県藤原町鬼怒川温泉の各上水道施设や札幌市白川浄水场(JV)も大きな工事であった。时期を同じくして海外ではタイのバンコックでタープラ、ルンピニ両ポンプステーション、バンケン浄水场やバンコック送水トンネル工事を、サウジアラビアではワシア上水道施设工事を行っている。

藤原町鬼怒川温泉上水道第4次拡张(JV)
<栃木県>昭和58年5月竣工
発注 栃木県藤原町
设计 东京设计事务所
藤原町鬼怒川温泉上水道第4次拡张(JV)
<栃木県>昭和58年5月竣工
発注 栃木県藤原町
设计 东京设计事务所

大阪府村野阶层浄水场2号栋(JV)

大阪府営水道第6次拡张事业の主要施设である当浄水场は、新型式である阶层浄水场2栋から构成されている。1号栋は他社JV施工ですでに昭和52年(1977)から営业运転を开始しており、当社は2号栋を竹中工务店、鹿岛建设、鸿池组、大日本土木との5社JVで52年10月~56年3月に施工した。

阶层浄水场は、従来、広大な敷地に平面的に配置されていた沉淀池、急速砂ろ过池、浄水池などの浄水施设を立体的に积み重ねて一つの构造物としたもので、当浄水场の浄水処理能力は1栋で1日30万迟である。2号栋は72.3m×88.8mの平面で、地上高さ31.1m、地下深さ14.8m、水槽66槽を含み、本体コンクリート量9万?とRC构造物としては国内有数の规模であった。

この建设にあたって厳密な耐震性と完全な水密性が要求されたが、それは完成后に常时5万迟以上の水を贮留するためであった。耐震性については、大型振动台で1/50模型による振动実験が行われ、これが构造设计に反映されたほか、水の振动を考虑した応答解析によって地震时の安全性の确认が行われた。水密性についても、使用コンクリートに温度ひび割れを防ぎ乾燥収缩を低减することを目的とした中庸热ポルトランドセメントが用いられ、また浄水场の両侧の水槽部外壁にはひび割れによる漏水防止のためにプレストレスが导入された。なお、外装のタイル打ち込みPC板製作には当社の京都PC工场などが全面的に协力した。请负金は18亿1,778万円(设备工事は别途)、所长は叁木克己であった。

大阪府村野阶层浄水场2号栋(JV)
<大阪府>昭和56年3月竣工
発注 大阪府
设计 大阪府
工事概要 RC造、B2、7F、PH付、延4万6,173㎡
大阪府村野阶层浄水场2号栋(JV)
<大阪府>昭和56年3月竣工
発注 大阪府
设计 大阪府
工事概要 RC造、B2、7F、PH付、延4万6,173㎡

东京都叁郷浄水场2号工事(JV)

最终的には1日最大给水量220万迟という世界最大级の规模を夸る叁郷浄水场(埼玉県)は、第4次利根川水系水道拡张工事の基干施设である。敷地は约30万㎡と甲子园球场が八つも入る広大さで、その第1期工事だけでも昭和52年(1977)10月着工以来、じつに7年にわたった。工区は3工区に分けられ、当社?鹿岛建设JV工区(2号工事)が最も大きい约16万㎡の敷地であった。

当现场の地盘は全般にわたり地下水位の高い冲积软弱地盘のため、着工と同时に地震时の液状化対策としてサンドコンパクションパイルによる地盘改良工事を行い、続いて杭打ち工事では、平均45mの长さの杭を総数1万2,000本打设した。最盛期には20台近い杭打机が并び、杭工事だけで请负金の约40%にのぼった。

掘削が开始されると、その大规模かつ急速な地下水の汲上げによって近隣に地盘変状が起こり、急遽その対策が求められた。そこで、一部工事を中止して现场周囲に止水壁を筑造することとなり、当JV工事では当社のOWS工法による泥水固化壁(SG工法)を计3万1,685㎡施工した。

当JV工事の主な施设は薬品沉淀池、ダクト、薬品统合管理所、管理本馆、排水ポンプ所、排水処理所、排泥浓缩槽、着水井などであったが、复数の土木、建筑工事が错综し、さらに各JV工事が混然一体となって同时进行したため、きわめて复雑なものであった。なお、当工事では止水壁のSG工法のほかに、管理本馆には当社の免震床、ダイナミック?フロア185㎡も採用された。

第1期工事が59年9月终了し、60年6月、日量55万迟の通水が开始されたが、その后も日量110万迟の浄水能力を目指す第2期工事が平成2年まで続き、当社は沉淀池の工事などに携わった。第1期工事の请负金は143亿円、所长は柳瀬五郎であった。

东京都叁郷浄水场2号工事(JV)
<埼玉県>昭和59年9月竣工
発注 东京都
设计 东京都
工事概要 薬品沉淀池8池、ダクト(原水渠?排水渠延2,069m、分水井2池)、排泥浓缩槽2池、着水井(RC造、1池)、薬品贮蔵槽基础1池、管理本馆(SRC造、B1、4F、延6,519㎡)、薬品统合管理所(SRC造、B2、2F、延2万102㎡)、掘削工29万3,092?、地盘改良工事(サンドコンパクションパイル3万859m)、杭打工(钢管杭3,407本、高强度PC杭2,895本、钢管コンクリート复合杭6,279本)ほか
东京都叁郷浄水场2号工事(JV)
<埼玉県>昭和59年9月竣工
発注 东京都
设计 东京都
工事概要 薬品沉淀池8池、ダクト(原水渠?排水渠延2,069m、分水井2池)、排泥浓缩槽2池、着水井(RC造、1池)、薬品贮蔵槽基础1池、管理本馆(SRC造、B1、4F、延6,519㎡)、薬品统合管理所(SRC造、B2、2F、延2万102㎡)、掘削工29万3,092?、地盘改良工事(サンドコンパクションパイル3万859m)、杭打工(钢管杭3,407本、高强度PC杭2,895本、钢管コンクリート复合杭6,279本)ほか

ダム施工技术の进展

代表的な大型土木構造物であるダムは、建設地点の立地条件が厳しさを加えていくなかで、これに対応した技術の高度化が要請され、諸外国には例をみない複雑な地盤条件に対する基礎処理技術の開発や設計技術の向上により、従来建設が困難であった地盤条件の不良な場所でも建設が可能となった。その施工においても、経済性の向上や工期短縮、生産工程の合理化等を目標に新技術の開発が進み、コンクリートダムの施工を大きく変貌させたRCD工法(Roller Compacted Dam-concrete)の開発など、わが国のダム技術は国際的にもトップクラスの水準に達した。なお、昭和50年代竣工の当社の主なダム工事の実績は下表のとおりである。

大雪ダム(JV)
<北海道>昭和50年9月竣工
発注 北海道开発庁
设计 北海道开発庁
大雪ダム(JV)
<北海道>昭和50年9月竣工
発注 北海道开発庁
设计 北海道开発庁
鹿ノ子ダム(JV)
<北海道>昭和58年3月竣工
発注 北海道开発庁
设计 北海道开発庁
鹿ノ子ダム(JV)
<北海道>昭和58年3月竣工
発注 北海道开発庁
设计 北海道开発庁
东山ダム
<福岛県>昭和57年3月竣工
発注 福岛県
设计 福岛県
东山ダム
<福岛県>昭和57年3月竣工
発注 福岛県
设计 福岛県
屋嘉ダム(JV)
<冲縄県>昭和58年3月竣工
発注 冲縄県金武町
设计 建设技术研究所
屋嘉ダム(JV)
<冲縄県>昭和58年3月竣工
発注 冲縄県金武町
设计 建设技术研究所
一库ダム(JV)
<兵库県>昭和57年3月竣工
発注 水资源开発公団
设计 水资源开発公団
一库ダム(JV)
<兵库県>昭和57年3月竣工
発注 水资源开発公団
设计 水资源开発公団

岛地川ダム(JV)

建设省発注の重力式コンクリートダムである岛地川ダム(山口県)は、その堤体施工に日本初のRCD工法が採用された。RCD工法は、超硬练りコンクリート(スランプ0㎝)を打设现场にダンプカーで直接持ち込み、振动ローラーで転圧する工法で、従来のケーブルクレーン等によるバケット打设に比べて、多くの汎用机械を利用でき、生产性の向上も可能になる重力式コンクリートダムの合理化施工法である。当时、米国、ソ连、ヨーロッパ等の世界各国で研究が进められ、実工事への适用も试みられつつあったが、わが国では、建设省の大川ダムの上流仮缔切ダムおよび当岛地川ダム贮水池内のテストピットでの现场试験施工が行われていた。

このような状况のなかで、昭和53年(1978)秋、岛地川ダム本体の打设を开始した。本工事は、従来のコンクリートダムの施工法の概念を一変するものであったために、ダムコンクリートの最适な配合、製造方法、打设方法、施工机械、品质管理方法等のいずれをとっても、过去に経験のない1ページを书き起こすような技术开発の连続であり、発注者と施工者が一体となった努力が积み重ねられた。

こうして55年7月、31万7,000?のコンクリート打设が完了し、现在重力式コンクリートダムの标準工法の一つとなったRCD工法の技术的素地を确立した。この岛地川ダムの成果は、ロンドン、ブラジルと2年続けて国际大ダム会议(ICOLD)で报告され国际的な注目を浴び、また国内においても、55年度土木学会技术赏および全建赏(全国建设技术协会主催)が授与された。请负金は66亿3,292万円、当社(干事会社)と大本组とのJVで、所长は飞田仁彦から仏石 进に引き継がれた。

岛地川ダム(JV)
<山口県>昭和56年3月竣工
発注 建设省
设计 建设省
工事概要 重力式コンクリートダム、堤高89m、堤頂長240m、堤体積31万7,000? (左写真はRCD工法で施工中の現場)
岛地川ダム(JV)
<山口県>昭和56年3月竣工
発注 建设省
设计 建设省
工事概要 重力式コンクリートダム、堤高89m、堤頂長240m、堤体積31万7,000? (左写真はRCD工法で施工中の現場)

新たな交通需要を呼ぶ都市高速道路网

首都高速道路では、昭和53年(1978)にスタートした第8次道路整备5カ年计画にあわせて、中央环状线の一部や都市间高速道路と接続する放射线あるいは高速湾岸线などが、この时期、重点的に整备された。前章で述べた东京港(沉埋)トンネル、荒川湾岸桥を含む高速湾岸线(1期、2期)は、その供用によって东関东自动车道と接続され、东京~千叶间は临海部で结ばれた。この高速湾岸线とともに55年には一般有料道路である京叶道路(当社は大森工区?JVなどを担当)が全线开通し、都心と成田空港を结ぶルートは2本になり、重要な役割を担う路线となった。また、55年6月、湾岸埋立地への交通体系整备の一环として东京港第二航路海底トンネル(JV)が完成している。

当社はこのころ中央环状线と常磐自动车道を结ぶ足立叁郷线で綾瀬川付近の高架桥工事(JV)を行っているが、首都高速道路は59年に供用延长を160.8㎞とし、こうした高速道路网の拡充は新たな交通需要を呼び、交通量はさらに増大を続けるという皮肉な事态に陥っていった。

一方、万博后、供用延长の伸び率が低下していた阪神高速道路は、51年以降、公共投资の拡大や、また反対运动への粘り强い交渉などによって、55年には供用総延长を100㎞にのせることができた。一部开通していたもののその后供用が遅れていた大阪西宫线も、56年の「ポートピア'81」の开催中に供用に付され、以后、大阪と神戸间は阪神高速道路一本で行けるようになった。当社は前章で述べた大和川桥梁(大阪湾岸线)下部工(JV)とともに大规模な斜张桥であった安治川桥梁(同线3期)の下部工(JV)を施工し、同公団初の长大トンネルとして注目された蓝那トンネル(JV)も担当した。

阪神高速道路蓝那トンネル(JV)

阪神高速道路の神戸市道高速道路北神戸线は神戸市域の中央部~六甲山系丘陵地をほぼ东西に走る27.5㎞の高速道路であり、付近の西神戸、北神戸一帯の开発が进むに伴って计画されたものであった。

蓝那トンネルは、同线のほぼ中央に位置し、阪神高速道路公団初の本格的山岳トンネル工事として注目された。トンネル延长は2,339m、上下2本の分离トンネルで、工事は当社(干事会社)と奥村组のJVにより昭和53年(1978)3月スタートした。

工法は最もオーソドックスな底设导坑先进上部半断面工法とし、风化のひどい东西両坑口付近のみ侧壁导坑先进工法(サイロット工法)で対処した。

当社が施工した日生铃兰台ニュータウンの下60mを発破工法で掘进するため、工事は、家が建つ前に完成を目指して开始されたが、いちばん近い住宅はトンネル真上から水平距离で80mと近く、150轩にわたる绵密な事前调査とともに1,000mにも及ぶ防音壁を设けるなど、典型的な山岳トンネルながら都市土木并みの近隣対策をとった。また、地形が険しくかつ农业用施设が近接しているため、工事中も完成后も降雨による浊水、土砂の流出、法面崩壊に対する措置として、排水施设や防灾调整池の整备に万全を期した。请负金は40亿2,256万円、所长は村上晴男であった。

阪神高速道路蓝那トンネル(JV)
<兵库県>昭和57年11月竣工
発注 阪神高速道路
设计 阪神高速道路
工事概要 延长2,339m(西行线1,169m、东行线1,170m)、掘削土量20万4,539?
(写真は工事中の坑口〈左〉と坑内〈左下〉)
阪神高速道路蓝那トンネル(JV)
<兵库県>昭和57年11月竣工
発注 阪神高速道路
设计 阪神高速道路
工事概要 延长2,339m(西行线1,169m、东行线1,170m)、掘削土量20万4,539?
(写真は工事中の坑口〈左〉と坑内〈左下〉)

海上都市の建设

ポートアイランド?六甲アイランド

天然の良港として栄えた神戸にも、昭和30年代から日本経済の急速な発展と世界的な物流増大の波が押し寄せ、必然的に神戸港における取扱い货物量の増大をもたらした。また、船舶の大型化と输送方法の革新は、従来の港湾施设に大きな変化を要求することとなった。

一方、神戸市の人口は30年(1955)に98万人であったが、41年には122万人へと増加し、しかもその人口の90%が全市域のわずか10%にすぎない六甲山系の南侧に集中していた。このような状况のなかで、政治?経済?文化などの都市机能を受けもつ新しい都市空间の创造が强く求められ、海上都市?ポートアイランドの建设が计画された。

この事业の第1期は42年4月に着手され、约15年の歳月と事业费2,300亿円をかけて55年3月に南北约2㎞、东西约3㎞、埋立面积436?、埋立土量8,300万?として完成した。

当社はこの埋立てのための土砂搬送工事とともに、そこへの足となった新交通システム、また新しい街づくりの提案をした住宅、ポートピアプラザほか多数の工事をこの人工岛で行っている。なお、现在、第2期工事として62年3月から平成9年3月までの期间をかけて、390?の拡张工事が行われている。

ポートアイランドに続いて47年12月から第2の人工岛?六甲アイランド(580?)の建设が始まり、现在、平成5年3月完成を目指して埋立工事が続いている。こちらでも当社は次々工事を手がけており、両岛での当社の代表的な工事は以下のとおりである。

<ポートアイランド>

ポートアイランド用土砂採掘および运搬、神戸市立中央市民病院(JV)〈现在増筑中〉、ポートピア'81関连施设[①パビリオン(ポートピアみどり馆、神钢ポートラマ馆、大阪ガスワンダーランド、神戸ポートピアサンヨーソーラリアム)②周辺施设(市民広场、ポートピア'81エキゾチックタウンサービス施设)]、ポートピアプラザ(KPI)A~H栋、ポートアイランド第2期コンテナバース岸壁基础、神戸新交通ポートアイランド线叁宫駅〈岛外工事〉

<六甲アイランド>

六甲アイランド岸壁ケーソン製作?埋立(JV)、神戸新交通六甲アイランド线鱼崎駅〈岛外工事〉、六甲アイランドリバーモール〈现在第2期施工中〉、ドンク六甲アイランド工场、日本通运神戸海运支店六甲アイランド2号上屋(JV)、アオイア(JV)〈水辺をテーマとしたテーマパークでプールは施工済み、アミューズメント施设?アトラクション设备は施工中、ホテルは建设予定〉、骏台ホテル観光事业専门学校?芦屋芸术情报専门学校、イーストコート2番街

写真手前がポートアイランド、奥が六甲アイランド
写真手前がポートアイランド、奥が六甲アイランド

神戸市立中央市民病院(JV)

神戸港冲に埋立造成された人工岛?ポートアイランドのほぼ中央に建つ当病院は、昭和53年(1978)7月に着工した。着工当初は岛の西部でコンテナ埠头が稼働しているだけで、东部の一部ではまだ埋立工事が続いており、岛の各所で地盘改良工事が行われていた。また、道路はまだなく、电力、电话、水等も远くコンテナ埠头侧から引き込んでくるという状况であった。

建物は、地下40mの杭に支えられた地下1阶、地上12阶、平面は縦横対称形で、地上部分は鉄骨大スパン方式を採用している。敷地には2年前から圧密促进のための载荷盛土(高さ10m)があり、それを排土することから着手した。

施工に际し、扬重计画では各阶に水平运搬用の台车を配置し、扬重用ロングエレベータと结ぶステージを设けて、荷が容易に台车に移动できるようにした。

55年になると岛内で催されるポートピア'81に向けパビリオン等の建设も本格化し、岛内で事业を行う建设业者の数は200社を超えた。当工事も仕上げ工事の最盛期にあったが、行き届いた段取りにより、とくに作业员不足に悩まされることもなく工事は顺调に进んだ。

当社(干事会社)、戸田建设、东急建设の3社JVの施工で、请负金は37亿6,577万円(设备工事は别途)、鉄骨、钢管杭は支给であった。所长は中川一郎である。

56年3月病院オープン以来、屋上にヘリポートも备えた1,000床のベッド数をもつこの最先端の医疗施设には见学者が多数访れ、57年BCS赏も受赏した。

神戸市立中央市民病院(JV)
<兵库県>昭和55年11月竣工
発注 神戸市
设计 神戸市、伊藤喜叁郎建筑研究所、日建设计
工事概要 S造およびSRC造、B1、12F、PH付、延6万8,504㎡、ベッド数1,000床
神戸市立中央市民病院(JV)
<兵库県>昭和55年11月竣工
発注 神戸市
设计 神戸市、伊藤喜叁郎建筑研究所、日建设计
工事概要 S造およびSRC造、B1、12F、PH付、延6万8,504㎡、ベッド数1,000床

ポートピアプラザ

ポートアイランドの一角で昭和56年(1981)开催された博覧会「ポートピア'81」の跡地利用として、神戸市によって54年に行われたポートアイランド高层住宅用地コンペに、当社、叁菱地所、叁菱商事、川鉄商事の4事业主で応募、みごと当选を果たした。

この当选案に沿って57年4月からスタートした第1期工事では、高层栋2、中层栋1、施设栋1(店舗等)を59年8月にかけ建设した。ほぼ同时期に始まった第2期工事では、高层栋2、中层栋1、施设栋1(室内プール)のほか公园や驻车场が计画されたが、途中、第1期の住戸贩売状况の不振などの理由から、贩売促进のためG栋(室内プール)のみを完成させただけで、他は工事を一时中断した。

その后、第2期工事は61年9月から再スタートし、平成元年8月、7年余をかけた大事业はようやく完成した。この间、全工期250万时间无事故无灾害を达成して平成元年労働大臣优良赏を受赏、全戸(856戸)完売も果たした。请负金は197亿5,477万円、所长は第1期が内田昭雄、第2期が木村雅一であった。

ポートピアプラザ
<兵庫県>昭和59年8月竣工(第1期) 平成元年8月竣工(第2期)
発注 当社、叁菱地所、叁菱商事、川鉄商事
设计 叁菱地所
工事概要 A?B?C?D棟/SRC造、B1、25F、PH付 E?F棟/RC造、8F、PH付 G?H棟/RC造、2F 総延10万2,185㎡
ポートピアプラザ
<兵庫県>昭和59年8月竣工(第1期) 平成元年8月竣工(第2期)
発注 当社、叁菱地所、叁菱商事、川鉄商事
设计 叁菱地所
工事概要 A?B?C?D棟/SRC造、B1、25F、PH付 E?F棟/RC造、8F、PH付 G?H棟/RC造、2F 総延10万2,185㎡

急がれる廃弃物処理施设

人口増に伴う一般廃弃物の増加と高度経済成长で膨张する产业廃弃物の処理が深刻な社会问题となり、昭和44年(1969)から8年ごしの东京?杉并清扫工场建设问题から“ゴミ戦争”という言叶まで登场するようになった。そうしたなか、45年、従来の「清扫法」が全面改订され、生活环境の保全と公众卫生の向上を目的とした「廃弃物の処理及び清扫に関する法律」が制定され、ここに一般廃弃物と产业廃弃物を区别し、その処理体制がようやく整备された。

安定成长期に入り排出廃弃物量の上昇率はスローダウンしたものの、全国の产业廃弃物は、50年度に2亿3,650万迟であったものが60年度は3亿1,230万迟と30%の増加、一般廃弃物は、50年度の3,200万迟から60年度は4,350万迟と35%増加した。廃弃物処分については、各地方自治体がこれに当たるが、人口増加の着しい大都市圏では事态は深刻で、これに対応すべく広域的な最终処分场を自治体が共同して造るいわゆる「フェニックス计画」が策定された。しかし、この计画も平成3年末现在、大阪ではスタートしたものの、东京ではまだスタートが切られていない。

38年度に発足した国の廃弃物処理5カ年计画は、51年度に第4次计画が始まり、当计画ではとくにゴミ?し尿処理施设や产业廃弃物処分施设の整备に重点がおかれ、その投资総额は1兆4,000亿円にものぼった。また、56年度からの第5次计画では、廃弃物の再利用や资源化、大都市で年々増大するゴミの処分场确保を柱として2兆円以上が投资された。廃弃物最终処分量を第5次计画の最终年度である60年度でみると、产业廃弃物3亿1,227万迟のうち中间処理(44%)から出てくる残渣を含めて最终的処分量は年间9,000万迟、また一般廃弃物では、年间排出総量4,345万迟のうち焼却の残渣を含めて1,600万迟にのぼり、年间で合计1亿600万迟が最终的に埋め立てるなどして処分された。

当社が50年代に施工した代表的な廃弃物最终処分场(海上型)、ゴミ焼却场は以下のとおりであるが、60年代以降もこの种の施设建设は増加倾向をたどっている。

●廃弃物最终処分场(海上型)

大阪市北港廃弃物処分地护岸、兵库県廃弃物埋立护岸、东京都中央防波堤外侧廃弃物処理场护岸(JV)、千叶港廃弃物埋立护岸、広岛県大竹地区廃弃物埋立护岸(JV)(62年3月竣工)

●ゴミ焼却场

东京都大井清扫工场、神戸市环境局东工场、青森市梨の木清扫工场、名古屋市环境事业局南阳工场、大阪市环境事业局港工场、东京都砂町処理场汚泥焼却炉烟突、埼玉県东部清扫组合第二工场ごみ処理施设(JV)

なお、50年代后半(一部60、61年竣工)の当社施工の代表的な下水処理施设には以下のものがあった。

●下水処理施设

<関东圏>

东京都柳瀬処理场(一部JV)、埼玉県荒川左岸南部流域下水道荒川终末処理场4号水処理施设、横浜市神奈川下水処理场水処理施设第2期?第3期(JV)、汤河原町浄水センター

<近畿圏>

豊中市猪名川流域下水道原田终末処理场第3系列2/8水処理施设、神戸市新垂水処理场水処理施设、大阪市今津贮留池(その4)(その5)、明石市朝雾环境センター、和歌山市中央终末処理场処理施设、大阪府渚処理场水処理施设(JV)、大阪市市冈処理场沉砂池并びにポンプ室他、大阪府摂津ポンプ场ポンプ室その他(JV)

<その他>

名古屋市鸣海下水処理场処理施设(増设)、日本下水道事业団中野浄化管理センター(JV)(长野)、同事业団(一部広岛県発注)太田川流域下水道西部浄化センター(その5)ほか(JV)、同事业団中讃流域下水道大束川浄化センター(JV)(香川)、金沢市公共下水道西部処理场水処理施设(JV)

青森市梨の木清扫工场
<青森県>昭和51年6月竣工
発注 青森市
设计 川崎重工业
青森市梨の木清扫工场
<青森県>昭和51年6月竣工
発注 青森市
设计 川崎重工业
明石市朝雾処理场処理施设(朝雾环境センター)
<兵庫県>昭和59年10月竣工(土木工事) 昭和60年4月竣工(建築工事)
発注 明石市
设计 明石市
明石市朝雾処理场処理施设(朝雾环境センター)
<兵庫県>昭和59年10月竣工(土木工事) 昭和60年4月竣工(建築工事)
発注 明石市
设计 明石市
名古屋市环境事业局南阳工场
<爱知県>昭和52年6月竣工
発注 名古屋市
设计 名古屋市、大建设计
名古屋市环境事业局南阳工场
<爱知県>昭和52年6月竣工
発注 名古屋市
设计 名古屋市、大建设计
太田川流域下水道西部浄化センター(JV)
<広島県>昭和56年9月竣工(第1期) 昭和60年9月竣工(第2期)
発注 日本下水道事业団(第1期)、広岛県(第2期)
設計 日本下水道事業団、日本水工設計(第1期) 広島県、日本水工設計(第2期)
太田川流域下水道西部浄化センター(JV)
<広島県>昭和56年9月竣工(第1期) 昭和60年9月竣工(第2期)
発注 日本下水道事业団(第1期)、広岛県(第2期)
設計 日本下水道事業団、日本水工設計(第1期) 広島県、日本水工設計(第2期)
荒川左岸南部流域下水道荒川终末処理场4号水処理施设
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 埼玉県
设计 埼玉県
荒川左岸南部流域下水道荒川终末処理场4号水処理施设
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 埼玉県
设计 埼玉県

东北?上越新干线が开通

昭和44年(1969)4月に策定された新全国総合开発计画に基づく国土开発の骨格形成のため全国新干线网の整备が目标とされ、45年5月に新干线建设のための法律「全国新干线鉄道整备法」が公布された。これによって东北新干线と上越新干线の整备计画が决定された。

46年11月、両线同时に数カ所で起工式が行われ、顺次工事に着手した。そして东北新干线は57年6月、大宫~盛冈间470㎞が暂定开业され、根强い住民の建设反対にあって遅れていた上野~大宫间28㎞もようやく57年度から工事に着手し、60年3月営业开始となった。その后、上野~东京间は平成3年6月开业された。

一方、上越新干线は57年11月开业となったが、ルートの大半が豪雪地帯を通过するため、雪害に対する本格的な対策が施された。また、延长5㎞以上の长大トンネルが7カ所もあり、高崎~长冈间は136㎞のうち约78%がトンネルであったため难工事の末の开业であった。

なお、东北?上越新干线における当社の主な工事は右図のとおりである。

東北新幹線?上越新幹線での当社の主な担当工事 ※発注者は日本鉄道建設公団または日本国有鉄道
東北新幹線?上越新幹線での当社の主な担当工事 ※発注者は日本鉄道建設公団または日本国有鉄道
上越新干线鱼沼隧道(南)
<新潟県>昭和51年9月竣工
発注 日本鉄道建设公団
设计 日本鉄道建设公団
上越新干线鱼沼隧道(南)
<新潟県>昭和51年9月竣工
発注 日本鉄道建设公団
设计 日本鉄道建设公団
东北新干线那须南高架桥
<栃木県>昭和55年10月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
东北新干线那须南高架桥
<栃木県>昭和55年10月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道

新仙台駅

东北新干线の开通を目指し、仙台駅も新装されることになり、昭和47年(1972)8月、西口駅前広场の一角に仮駅舎を建设、旧駅舎を解体することから工事はスタートした。

まず在来线を东侧に移动?敷设し、旧駅舎部を含めたその跡地に、长さ约313m、幅40mの新駅舎の建设を48年3月に着手、在来线ホームとの间には地中连続壁を设け掘削を开始した。

新駅舎はSRC造、地下1阶、地上4阶で、地上约17mの4阶部分が新干线ホームとなり、屋上は驻车场、2阶と3阶がコンコースとなっている。

一方、盛冈侧で仙台駅に大きくカーブして入线してくる东北本线とのクロス部分ではS造の高架桥を构筑した。その基础工事では深础の上の鉄骨建方を、深夜、仙台を通过する列车をすべて东侧の货物线を使って迂回输送し、その时间帯に合计4台のクレーンで复雑に入り组んだ架线をまたぐようなかたちで集中的に行った。

こうして高架桥の床版および駅舎部分の鉄骨建方も开始したが、石油危机后の政府の総需要抑制策の影响を受け、工事进捗はスローダウンを余仪なくされた。

ようやく51年12月建筑仕上げ工事が始まり、同时に駅舎に隣接してターミナルデパート「エスパル」の工事もスタートした。また、2阶コンコースから西口広场を大きくまたぎ、各周辺建物や道路へタコ足のようにのびるペデストリアンデッキの工事にも着手した。さらに高架桥部に接続して道路をまたぐ部分50mに合成桁も架设し、こうして新仙台駅、またそれに続く高架桥およびターミナルビル「エスパル」など主たる工事は53年3月竣工した。その后、西口駅前広场整备が56年3月まで続き、57年6月东北新干线盛冈~大宫间暂定开业を迎えた。请负金は土木工事が50亿908万円、建筑工事は51亿2,540万円、所长は土木工事が飞田仁彦から上原 忠、土屋义次に引き継がれ、建筑工事は阪上晴夫であった。

新仙台駅
<宫城県>昭和53年3月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 駅舎/SRC造、B1、4F、PH2F、延4万8,136㎡
プラットホーム/岛式、2面、延长410m
新仙台駅
<宫城県>昭和53年3月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 駅舎/SRC造、B1、4F、PH2F、延4万8,136㎡
プラットホーム/岛式、2面、延长410m

上越新干线新潟駅

上越新干线新潟駅は昭和49年(1974)から実に7年半の歳月と約250億円の巨費を投じた工事であった。

当駅は在来线国鉄新潟駅と操车场の线路间に岛状に构筑されたものであり、当社工区はこのうち大宫侧全长650mで、駅舎高架桥部400mと営业线とクロスする高架桥部250mである。幅员12.5~40m、RC造、2~3层ラーメン构造13スパン、桥台3基、桥脚2基、プラットホーム2面、そしてこの上に延5,600㎡のS造2层の駅舎の建筑工事があった。

なかでも大宫侧で営业线の上をまたぐ作业は最も困难な工事であった。1日170本の列车、电车が通过または留置される5本の电化线の真上にRCラーメンを构筑しようとするもので、その基础から柱までの施工はすべて列车运転上の安全空间(建筑限界という)を限界ぎりぎりまで缩小し、さらに上部躯体施工では架空活线から约50㎝の接近となった。また、営业线路、架线、留置电车に囲まれた中で4万3,000?のコンクリートを打设するための资材搬入にも苦虑した。このような厳しい条件下にもかかわらず155万时间无事故无灾害の记録を达成、56年労働大臣进歩赏、业种别无灾害最长记録赏(桥梁高架桥部门)等々の栄誉ある赏を受けた。

57年11月开业后も工事は63年まで続き、请负金は土木、建筑工事合计で65亿4,000万円、所长は土木工事は近藤信行、大桥进也、松村 孝から中村辉夫に引き継がれ、建筑工事は植村武夫であった。

上越新干线新潟駅
<新潟県>昭和57年9月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 延长650m、幅员12.5~40m、2~3层RCラーメン构造、岛式プラットホーム2面、コンクリート量4万3,000?、駅舎(S造、2层、延5,600㎡)ほか
上越新干线新潟駅
<新潟県>昭和57年9月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 延长650m、幅员12.5~40m、2~3层RCラーメン构造、岛式プラットホーム2面、コンクリート量4万3,000?、駅舎(S造、2层、延5,600㎡)ほか

上越新干线中山トンネル高山工区

中山トンネルは子持、小野両山の鞍部の地下200~400mを贯く长さ1万4,857mの长大トンネルである。当初6工区に分け、200mの横坑、800mの斜坑各1本と、鉄道トンネルではそれまで例のない深さ300m级の立坑3本をそれぞれ作业坑として着手したが、大宫侧から2番目の工区で涌水が多く斜坑が水没して復旧不能となったため、この工区を廃止し、改めて5工区に分け直して工事を行った。当社工区はちょうどこの真ん中の工区2,827mであった。

工事は295mの大深度立坑工事から难航した。深さ51m付近から急速に地山が悪化し、大量の涌水に苦しんだ。少々の地盘凝固剤では歯が立たず、8本のディープウェルで毎分24迟の水を汲み上げて工事は続いた。この地下水の汲上げで近隣の农地が涸れてしまい、渇水対策として现场涌水処理プラントを急遽设け、约1.5㎞に及ぶ农业用水路を敷设し给水するという思わぬ事态も発生した。

立坑の掘削スピードは月5m、1日わずか20㎝。これ以上の工期の遅れを食い止めるためソレタンシュ社の工法による大规模な薬液注入と掘削が繰り返され、ようやく昭和51年(1976)6月、4年近い歳月をかけた立坑掘削が完了した。この间、难工事に奔走して病に倒れた米永贤次所长が不帰の客となった。

52年5月いよいよ本坑掘削を开始、大量の水を含む超悪地盘?八木沢层との戦いが始まった。途中、3度の大崩壊、水没があったが再起、ようやく56年4月新潟侧导坑が贯通し、9月大宫侧も贯通した。524、525ページは、『マンスリー大林』(57年1月号)に掲载された本坑工事の感动的な记録である。こうして57年3月(付帯工事は58年3月まで)、当初请负金の12倍余もの356亿円、当初3年9カ月の予定であった工期も10年10カ月となった世纪の难工事はここに幕を闭じたのであった。所长は米永贤次から土谷 覚に引き継がれた。

上越新干线中山トンネル高山工区
<群马県>昭和58年3月竣工
発注 日本鉄道建设公団
设计 日本鉄道建设公団
工事概要 トンネル延长2,827m、立坑深さ295m、掘削土量29万3,400?、コンクリート量7万2,500?
上越新干线中山トンネル高山工区
<群马県>昭和58年3月竣工
発注 日本鉄道建设公団
设计 日本鉄道建设公団
工事概要 トンネル延长2,827m、立坑深さ295m、掘削土量29万3,400?、コンクリート量7万2,500?

东北?上越新干线王子南部高架桥

东北新干线上野~大宫间工事は、昭和47年(1972)11月に着工したものの用地问题などにより遅れて、ようやく60年3月に完成した。このうち当社工区は、京浜东北线の东侧に沿い、さらに并行する区道と都电荒川线双方の上空におおいかぶさるような形の约400mの高架区间であった。また、施工区域にはこれを横切る地下鉄7号线、首都高速王子线、电电シールド等の将来计画があり、工事终点付近で明治通りや石神井川バイパス等の上空を横断するため、その基础位置は着しく限定され、各桥脚(6基)の支间は45~74mの长大スパンとなった。工事用地が狭隘で基础をコンパクトにしなくてはならないうえ、工事の騒音や振动を防止することが要请され、基础工事には当社の本格的な连壁刚体基础(459ページ参照)を採用し、57年4月の着工后わずか半年という短期间で连壁刚体基础6基を完成させた。

高架桥上部工は、幅员11.3m、最大支间74mの6径间を合成桁でつなぐもので、钢材量は1连最大728迟、6连で计3,565迟にも及ぶ当时わが国で最大级の鉄道高架桥であった。

架设方法は桁下の交通に支障を与えない手延べ送出し工法{}を採用し、使用する手延べ桁も长さ75.6mというかつて例をみない大规模なものであった。

また、架设箇所の新干线ルートは、平面的にはR=2,000mの曲线、縦断的には7%の勾配という复雑な线形であり、架设中の桁の方向やたわみの制御など高度な管理技术を要した施工であった。そのうえ、通常の交通运行が行われている上空での作业であるため、ちょっとしたミスが大事故につながる危険性があり、またこの间、震度4の地震や降雪などもあって紧张の日々が続いたが、60年3月、工事は无事完了した。请负金は17亿9,468万円、所长は大桥进也であった。

注 手延べ送出し工法:本设の合成桁の鼻先に手延べ桁という桁を取り付け、それを送り出して顺次1スパンずつ桁を架设する工法。

东北?上越新干线王子南部高架桥
<东京都>昭和60年3月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 连壁刚体基础6基(平均断面5.5m×6.0m×深さ约20m)、合成桁架设6连(スパン延长45~74m、钢材量3,565迟)、床版?路盘コンクリート量2,500?
东北?上越新干线王子南部高架桥
<东京都>昭和60年3月竣工
発注 日本国有鉄道
设计 日本国有鉄道
工事概要 连壁刚体基础6基(平均断面5.5m×6.0m×深さ约20m)、合成桁架设6连(スパン延长45~74m、钢材量3,565迟)、床版?路盘コンクリート量2,500?

涌水隧道、10年の闘い

●3度の大崩壊をくぐって

本坑掘削はまず新潟侧で行き詰まった。当社担当工区中间の高山立坑から新潟侧へ约240m掘り进んだ地点で八木沢层に突入。导坑掘进は难航。ショートベンチ法、LW凝固剤注入、水抜き坑掘削等の努力が重ねられた。しかし地山は极度に悪い。

52年10月18日、左导坑崩壊。崩壊土砂400?。更にLWを注入して掘进。

11月17日、左导坑2次崩壊。崩壊土砂600?。一时は立坑付近まで水が迫り、掘进不能。「オレが责任を预かる现场だから」と最后まで残った土谷所长は、崩壊土砂流の中を四つんばいで押し流されるように退避。

本坑部に开発间もない无机系注入薬液シリカライザーを大量注入。并行して悪地盘前方への迂回を図る。しかしこれも难航。右へ、左へ迂回路を求め、メッセル工法に切り换えての前进が続いた。53年5月、左迂回坑崩壊。同坑の半分近くが600?の土砂に埋まる被害を受けながら更に迂回を図る。

このころ、大宫侧も问题の八木沢层に接近していた。

●崩壊、水没、そして再起

高山立坑から大宫侧へ约2㎞のうち、1.1㎞ほどはなんとか顺调に进んだ。しかしこの付近から地山が悪化、八木沢层へ突入。导坑は立往生。

大规模薬液注入开始。并行してまず右の迂回を求めたが、100m少々入った所で调査ボーリングの结果、高圧涌水を伴うルーズな层の分布を确认、掘进断念。左へ迂回を试みる。地山を探り、水抜きをしながら慎重に进む。54年1月、迂回に成功。直ちに大宫侧隣工区(四方木工区)と八木沢层に向けて同时に掘进を开始。その2カ月后、四方木工区が同工区八木沢层のえじきとなって水没。

翌55年1月には新潟侧で、3度の大崩壊をもたらした八木沢层を突破。难工事にもひとときの光がさした。

そして55年3月7日、大宫侧で悪梦のような巨大な崩壊が始まった。同日23时30分、迂回先から八木沢层を攻めていた右导坑で、矢板のきしみ、変状が起こり、天端から毎分200~300?の涌水が始まった。左导坑でも一部矢板の异状を确认。

翌8日0时35分。ついに涌水が浊りだし支保工も変化し始める。钢管、H钢を投じての补强を急いだが、涌水は浊りを増して见る见る急増。アッという间に手のつけられない状态となった。支保工接続部のボルトが次々と飞ばされ、支保工がはらみ、山鸣りが続き、切羽先端に黒い影が落ちた。崩壊だ! 全员一时退避。出水量はすでに毎分50迟。水位は深い所で1.2mに达した。各ポンプ室への涌水の导水、セメント袋を积み上げての止水堰の构筑、コンクリート止水堰の打设、临时ポンプ场の设営が夜を彻して行われた。翌朝水没は一时まぬがれたかにみえた。

3月9日16时20分、涌水の色がにわかに暗褐色となり水量が瞬时に激増。未曾有の大出水が起こった。17时过ぎ、各ポンプ室が次々と水没。激しい水势に、天井まで积み上げコンクリート补强までした止水堰も相次いで突破された。涌水量は毎分120~130迟。

3月10日3时35分、全员坑外へ脱出。同日7时再入坑して最后の抵抗を试みたが、水は立坑の所まで押し寄せ、ついにすべての作业を断念。再入坑者92名の脱出を最后に、7年半もかけてやっとここまでたどりついた苦労は、わずか2日余りで水没してしまった。

土谷「水没を前にしたときの気持はとても一言では……。情なくて、悔しくて、大の男に涙が流れた」

水没は立坑深さ100mあたりにまで及んだ。出水地点直上のゴルフ场からの深さ350mのボーリングと止水モルタル、凝固剤の坑外注入が决定され、全国各地からボーリング业者を呼び集めた。50基を超えるやぐらが林立し、300カ所以上の注入坑のボーリングが昼夜兼行で始まった。

まず8,000?を超すモルタルを2週间ぶっ通しで注入。出水箇所坑道の闭塞を図る。また周辺八木沢层へはその后约10カ月にわたり10万?に迫る薬液が注入された。

8月に入りようやく水が止まり排水开始。8月25日、復旧第1阵入坑。モルタルで埋まる坑内。ヘドロがぶ厚く堆积する。56年2月までその被灾処理。それからがまた大変だった。

四方木工区の地层の都合でルート変更。约600mの本坑を新规に掘り直すことになった。大宫侧にはまだ八木沢层が。そして57年3月までに竣工との指示。职员、作业员の大动员が始まる。职员数は60名を超え、作业员も800名を数えるに至った。もはや経済性も何もかも度外视した、当社の威信をかけての大突贯が开始された。

56年4月17日、新潟侧隣工区との导坑贯通。9月24日、大宫侧八木沢层を贯通。ついに1本の本坑に结ばれた。测量班は皆泣いた。

当地で生まれた子もすでに小学校高学年になろうとしていた。

下図に続く

55年3月の大出水。必死の遮水堰构筑が続けられる
55年3月の大出水。必死の遮水堰构筑が続けられる
抵抗むなしく、水没间近の坑内
抵抗むなしく、水没间近の坑内

景気回復策を担った电力投资

第1次石油危机で国内电力需要は一気に冷え込んだが、昭和52年度(1977年度)の电力业界の设备投资计画(工事ベース)は、电力9社の合计で2兆3,615亿円と前年に比べ22%の大幅増となり、53年度には电力9社と电源开発の合计で3兆円の大台に乗った。この时期、设备投资が大きく伸びたのは、景気回復策の一つとして政府が电力业界に电源开発の设备投资拡大を要请したからであった。とくに、石油に过度に依存してきた従来の姿势を见直す意味で原子力発电の建设促进が求められ、一方、LNGや石炭などの代替エネルギーに目を向ける动きが高まっていった。しかし、50年代后半に入ると、これらの発电所が运転を开始したにもかかわらず肝肾の电力需要が低迷し、设备投资も下降线をたどり、计画延期のプロジェクトも出始めた。

このように石油危机を境にして电気事业をめぐる环境は大きく変わったが、电源立地难は相変わらずであった。発电所の建设について地域の同意が得られない大きな理由の一つは、安全性への不安や环境破壊への危惧であり、もう一つは地域経済へのメリットが少ないと地元侧が受けとめているということであった。これに対して、出力15万?以上の火力および原子力発电所は环境调査の结果を环境审査顾问会が审査することとしたり、49年には电源立地促进の决定打ともいうべき电源3法{}を成立させ、これらに対応したのであった。

原子力発电所については别项で述べているが、火力発电所では、石炭の见直しによって海外炭による大规模な発电所が建设されるようになり、当社はその一つである电源开発松岛火力発电所1?2号机本馆(JV)を建设した。また、四国电力西条発电所で石炭サイロの新システムを开発、建设し、苫东コールセンターでは浜厚真事业所贮炭场(JV)を建设した。さらに関西电力御坊発电所1~3号机本馆(JV)は、人工岛の超若齢地盘という立地で、その施工は各方面から大いに注目された。水力発电については、43年を境に电力需给が逼迫し、また电力需要のピークが夏场に移行するなかで登场した扬水式発电所の大规模なものや地下発电所の建设にも携わった。

大都市への人口集中に応じて大容量変电所の建设も行われ、その代表的なものには东京电力横浜西口変电所(JV)、东北电力五ツ桥変电所(JV)、东京电力上野変电所(JV)(61年3月竣工)などがあった。また、当社初の地热発电所である北海道电力森発电所本馆(JV)、インドネシアのマニンジョウ水力発电所(JV)の建设もこのころであった。

さらに60年代に入り中部电力碧南火力発电所灰捨地护岸(JV)、そして请负金が40亿円近くにものぼった関西电力旧尼崎第一?第二発电所の大规模な解体撤去工事という珍しい工事もあった。

注 电源3法:「电源开発促进税法」「电源开発促进対策特别会计法」「発电用施设周辺地域整备法」の叁つの法律のこと。

奥清津発电所第一工区(JV)
<新潟県>昭和53年10月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発
(写真は取水口とゲート室)
奥清津発电所第一工区(JV)
<新潟県>昭和53年10月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発
(写真は取水口とゲート室)
松岛火力発电所1?2号机本馆(JV)
<长崎県>昭和56年8月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発、開発設計
松岛火力発电所1?2号机本馆(JV)
<长崎県>昭和56年8月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発、開発設計
松浦火力発电所1号机本馆(JV)
<长崎県>平成2年5月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発、開発設計
松浦火力発电所1号机本馆(JV)
<长崎県>平成2年5月竣工
発注 电源开発
设计 电源开発、開発設計

四国电力西条発电所石炭サイロ

四国电力では、电源多様化の一环として西条発电所1?2号机の燃料石炭転换工事に着手、そのための大型贮炭サイロ3基(1基1万3,000迟)の建设を计画した。完成すれば大型贮炭サイロとしてはわが国初のものであった。当社は、日立製作所と共同で开発した新型払出し装置(Wコニカルシステム)を中心とした大型贮炭サイロの技术を高く评価され、この四国电力初の工事を手がけることとなった。

発电所向けの大型石炭サイロは、当社が他社に先がけて开発に着手し、この受注でその成果がようやく実ることになった新しい技术であった。また、几つかの土木建筑技术の组合せに加えて、机械?电気などの技术も一体となったシステムのトータルエンジニアリングであり、わが国の建设业に新しい足跡を记したといえる。

工事は昭和56年(1981)11月に开始されたが、杭基础は上部构造にマッチした设计が可能という理由からウォール ファウンデーション工法を採用した。初めてプレストレスを导入したHPシェルの筒体は、新たに开発したアンボンドPCケーブル押し込み装置を搭载したスウェトー工法で施工した。

また、Wコニカルシステムのホッパーは、石炭のスムーズな流动を确保するために円锥型を组み合わせた形状をしており、一部にプレストレスを导入した鉄筋コンクリート製で、その表面にはステンレスのライニングを打ち込むこととなっていた。この难解さに加えて、复雑な形状となる筒体との接合部などをいかに施工するかが问题であった。请负金は15亿3,782万円(设备工事は别途)、所长は曽根隆之であった。

四国电力西条発电所石炭サイロ
<爱媛県>昭和58年6月竣工
発注 四国电力(1次)、日立製作所(2次)
设计 当社、日立製作所
工事概要 石炭サイロ3基(1基贮炭能力1万3,000迟、RC造、下部外径31.1m、上部外径26.6m、筒体高さ33.4m)
四国电力西条発电所石炭サイロ
<爱媛県>昭和58年6月竣工
発注 四国电力(1次)、日立製作所(2次)
设计 当社、日立製作所
工事概要 石炭サイロ3基(1基贮炭能力1万3,000迟、RC造、下部外径31.1m、上部外径26.6m、筒体高さ33.4m)

関西电力御坊発电所1~3号机本馆(JV)

出力180万?の重原油混焼大型火力発电所である関西电力御坊発电所は、和歌山県御坊市の冲合约200mの海域に约35万㎡の広大な人工岛を筑造し、この上に発电设备、重原油备蓄施设、変电设备等いっさいを备えた、わが国初の海上発电所である。

当社(干事会社)、间组、西松建设、佐藤工业の4社JVで施工し、タービン建屋、ボイラー、超高烟突などの最重要构造物の基础工事にはOWS工法によるウォール ファウンデーションを大规模に採用、耐震壁を含む本体地中壁および基础杭として延约5万㎡を施工した。このような大规模発电施设の基础にウォールファウンデーションが全面的に採用されたのはわが国初のことであった。従来数多く施工された地中壁は、天然地盘か、もしくは埋立地盘であっても掘削土砂等で构成され、埋立て后长期间の圧密が完了した地盘におけるものであった。ところが、この人工岛を形成する埋立地盘は、そのほとんどは岩石を人工的に破砕して作った砕石を主とし、しかも埋立てが终了した后、圧密期间をおくことなく、ただちに基础工事に取りかかるという、过去に全く経験しなかった施工条件であった。そこで本工事开始に先立ち、当社技术阵は大规模な施工実験を行った。そして、この若齢人工砾地盘に自硬性安定液という特殊な地盘安定液を浸透?固化させて、天然地盘に近い状态に変えた后、地中壁掘削に取りかかるという二段构えの工法を採用した。

さらに、水道水が得られない场所であったため安定液に海水を使用することを可能にする方法の开発、大量の安定液确保のための自动安定液作成供给システムの开発、また硬い支持地盘の掘削をハイドロフレーズ掘削机で克服するなど、OWS工法のあらゆる技法を駆使した。

さまざまな开発成果をもとにウォール ファウンデーションと地盘改良工事は昭和57年(1982)1月~11月という短工期で完了した。このため、ハイドロフレーズ掘削机5台、ケリー掘削机7台が同时に稼働し、一时、现场は重机が林立する一大机械展示场のような様相を呈し、内外见学者を惊かせたものであった。

地中壁工事に続く上部建筑工事もその势いに乗って顺调に进捗し、大幅な工期短缩の成果のうちにすべての工事は59年12月完成した。本馆の请负金は65亿6,445万円(设备工事は别途)、鉄筋、セメント、鉄骨などは支给であった。所长は太田进一である。

関西电力御坊発电所1~3号机本馆(JV)
<和歌山県>昭和59年12月竣工
発注 関西电力
设计 関西电力
工事概要 RC造およびS造、B1、6F、延3万1,466㎡
関西电力御坊発电所1~3号机本馆(JV)
<和歌山県>昭和59年12月竣工
発注 関西电力
设计 関西电力
工事概要 RC造およびS造、B1、6F、延3万1,466㎡

中国电力俣野川発电所导水路隧道(JV)

中国山脉の大山から南方12㎞地点の山奥にある当発电所は、1,650亿円を投じて建设されたわが国最大级の纯扬水式発电所である。昭和55年(1980)3月着工当时は、工事用道路もなく大型ヘリコプターで2~3万迟の机械?资材を空输し、职员や作业员は険しい山道を登り降りしなければならなかった。

当発电所は上池ダムから约4㎞の导水路トンネルを流れてくる水が落差420mの2本の立坑を一気に落下して発电机を回し、最大出力120万?(30万?×4台)の电力を作り出す。一方、电力需要の减ったときには今度はタービンを回して下池の水を同じルートで逆流させて上池に戻すというものである。

当社と飞岛建设のJVは、この発电所の导水路トンネル(内径7.8m)のうち延长2,507m部分、高さ134mのサージタンク(内径4.4~20.0m)、131mの斜坑や过去最深の420m立坑を含む水圧管路(内径4.2~5.0m)を2本、延长1,836mなど、作业坑を含め5㎞近いトンネル工事を担当した。斜坑や立坑では国内で初めて导入した立坑専用の掘削?ズリ积机が威力を発挥し、さらに地底から立坑を掘进するためのエレベータ式作业台、油圧ジャンボ、NATMでのコンクリート吹付けロボットなど次々と最新鋭マシンを駆使して60年12月工事は完了した。请负金は工事用道路を含めて74亿円にのぼった。所长は扇 启祐から山本宏司に引き継がれた。

中国电力俣野川発电所导水路隧道(JV)
<鸟取県>昭和60年12月竣工
発注 中国电力
设计 中国电力
工事概要 导水路トンネル/内径7.8m、延长2,507m
サージタンク/内径4.4~20.0m、高さ134m
水圧管路/内径4.2~5.0m、2本、延长1,836m
中国电力俣野川発电所导水路隧道(JV)
<鸟取県>昭和60年12月竣工
発注 中国电力
设计 中国电力
工事概要 导水路トンネル/内径7.8m、延长2,507m
サージタンク/内径4.4~20.0m、高さ134m
水圧管路/内径4.2~5.0m、2本、延长1,836m

歴史的建造物の保存と再生

日本における文化财建造物の国による保存?修理の制度は明治30年(1897)の「古社寺保存法」によって本格的にスタートし、昭和25年の「文化财保护法」により近代的な制度として确立した。当初は木造の古社寺が指定の主要な対象であったが、戦后は民家、さらに幕末?明治以降の近代建筑(洋风建筑)も积极的に加えられるようになった。63年4月现在で国宝および重要文化财の建造物は3,252栋で、うち洋风建筑は117栋である。

わが国の伝统的な木造建造物の保存?修理の技术は世界最高の水準にあり、51年から57年にかけて行われた桂离宫御殿整备工事はその代表的な例であり、一方、旧赤坂离宫を迎宾馆として再利用するための工事(JV)(49年3月竣工)は、いわゆる近代建筑の保存再利用事业の代表的な例となっている。

今日、洋风建筑の保存は、建物の外観を修復?保存して内部改造をする、いわゆるファサード保存の方式が主流となっている。この代表的なものが京都中京邮便局庁舎や日本银行大阪支店営业所本馆(JV)であった。

わが国の代表的なこれら保存?修復工事のいずれをも当社は手がけたが、ほかに60件ほどの同様の事例がある。次表に戦后の当社の主たる保存?再生工事を示す。このほかに、旧建物の一部を新ビルの一部にデザイン処理して移构した东海银行日本桥东海ビル(JV)や朝日生命日比谷ビル(JV)、古い材料はいっさい使用しないでイメージを保存した白鹿记念酒造博物馆(58年BCS赏、第9回吉田五十八赏特别赏などを受赏)などがある。

豊平馆保存修理
<北海道>昭和61年4月竣工
発注 札幌市
设计 文化财建造物保存技术协会
豊平馆保存修理
<北海道>昭和61年4月竣工
発注 札幌市
设计 文化财建造物保存技术协会
旧东京音楽学校奏楽堂復原移筑
<東京都>昭和62年3月竣工 発注 台東区
设计 台东区、文化财建造物保存技术协会
旧东京音楽学校奏楽堂復原移筑
<東京都>昭和62年3月竣工 発注 台東区
设计 台东区、文化财建造物保存技术协会
彦根城博物馆(JV)
<滋贺県>昭和61年5月竣工
発注 彦根市
设计 早川正夫建筑设计事务所
彦根城博物馆(JV)
<滋贺県>昭和61年5月竣工
発注 彦根市
设计 早川正夫建筑设计事务所
毛越寺本堂
<岩手県>平成元年4月竣工
発注 毛越寺
设计 藤岛亥治郎东京大学名誉教授、当社
毛越寺本堂
<岩手県>平成元年4月竣工
発注 毛越寺
设计 藤岛亥治郎东京大学名誉教授、当社

京都中京邮便局庁舎

中京邮便局庁舎は明治35年(1902)に建てられたルネッサンス様式、半地下、2阶建、木造トラス、天然スレート葺きの炼瓦造で、明治时代の逓信省建筑のなかでも粋を凝らした名建筑であった。その炼瓦外壁を保存し、邮便局业务の诸机能を果たす新馆と一体化する工事が昭和51年3月スタートした。付近は明治の面影を伝える京都独特の都市景観を醸し出している特别な地域であった。

工事のハイライトは炼瓦外壁を保存しながらいかに旧庁舎を解体するかということであったが、壁の自立は困难で炼瓦外壁だけを残しての解体は不可能であった。

そこで炼瓦外壁が工事中倒壊しないように炼瓦壁内侧にOWS壁と连続柱列杭を基础とする仮设鉄骨架构を组み、炼瓦壁とボルトで紧结する方法をとった。こうして旧庁舎は保存部分の炼瓦壁を补强用鉄骨で自立させて内部を全部解体し、続いて炼瓦壁を型枠として新しい鉄筋コンクリートの壁を内侧に造り、あらかじめ保存炼瓦壁の内侧にエポキシ树脂でセットされたアンカー鉄筋で紧结し、仮设鉄骨を解体した。こうした后、延9,700㎡の新庁舎を构筑し、53年3月すべての工事が完了した。

请负金は9亿6,620万円(设备工事は别途)、所长は小林正贵であった。なお、当工事は54年BCS赏特别赏を受赏した。

京都中京邮便局庁舎
<京都府>昭和53年3月竣工
発注 邮政省
设计 邮政省
工事概要 RC造およびSRC造、B1、3F、延9,700㎡
京都中京邮便局庁舎
<京都府>昭和53年3月竣工
発注 邮政省
设计 邮政省
工事概要 RC造およびSRC造、B1、3F、延9,700㎡

桂离宫御殿整备

桂离宫は京都の西南に位置し、桂川河畔にある。敷地は约7万㎡で、中央に古书院、中书院、新御殿の书院群があり、庭池を隔てて、お待合や茶屋が点在している。これらの名建筑群と风情ゆたかな庭园とのすぐれた调和は、日本の美の极致として広く知られている。

工事は昭和51年(1976)6月から延4万人の人员を动员し、5年9カ月の歳月をかけて行った。

一般に歴史的木造建造物の修理周期は、50年単位で屋根の葺替えなど小规模な修理が、100年単位で半解体程度の中规模な修理が行われる。そして当解体修理は300年周期に行われる最も大规模な全解体修理工事であった。

工事は、京都御所を中心に営々と技术を伝承してきた少数の名工、名匠たちによって施工され、一方では、合成树脂や防虫、防霉剤など现代技术を駆使して、昭和大修理ならではの工事内容となった。

まず、写真撮影に引き続いて実测调査を行った。これは现在大きく変形している建物の当初寸法を把握し、実施寸法を决定するためのとくに重要な作业であった。

また、実测调査は歴史调査资料としても重要で、解体中も続行し、野帐(状况を図面に写しとったもの)の枚数は1,500枚に达した。室内の実测调査と并行して、工事期间中建物を风雨から守るための素屋根架设も开始した。

こうして建物の解体に取りかかったが、一时に解体するのではなく详细な调査を并行して行い、解体した部材は伤つけないよう养生を施して解体材格纳库へ整理収纳した。解体した部材は全部で5万ピースを超えた。収纳した部材は、一本一本について履歴书(部材调査表)を作成し、埋木の跡、圧痕、仕口穴、钉穴や折损箇所、虫害、腐朽の各箇所を记録し、専门家の指导を受け修理方法を决定した。修理技法の考え方は、伝统技法による「木は木で修理する」を基本にし、有机高分子树脂による方法も併用した。

基础工事と部材修理が终わると木轴の再组立てを开始した。组立方法は创建时と同じ手法で行ったが、叁百数十年にわたる経年変化による部材の劣化はいかんともしがたく、一般的に行われる火打梁や筋违で补强するとともに、ステンレス製ボルトやワイヤーで仕口、継手部分の强化を図った。

次いで、屋根葺き工事と内部の造作工事に移った。屋根葺き材は、御殿が杮葺き、下屋や付属建屋が桟瓦葺きである。そして古书院、中书院、楽器の间および新御殿の屋根はやわらかな女性的曲线を配した起り屋根である。杮葺きは、椹や杉の赤味柾材を使用し、村上社寺工芸社の吉川昌治(第7回吉田五十八赏特别赏受赏)グループが当たった。

桂离宫の壁には、左官用消石灰を使った白い壁の「パラリ壁」と、錆土を使った赤い壁の「大阪土切り返し水ごね仕上げ壁」とがあるが、中书院と新御殿の内壁には创建当初に施工されたと思われる赤い壁の古代壁が残存していた。そこで中书院の壁はいったん取り外して木轴组立て时に再度取り付ける「大ばらし工法」を採用した。このような大规模な壁の「大ばらし工法」は过去に例がなく、今回工事における代表的な工法であった。このほかの内壁や外壁は、明治20年代の修理で涂り替えられており、今回は京都の名工である小川久吉氏(第7回吉田五十八赏特别赏受赏)が新しく涂り替えることとなった。

続いて、内装材の取付けが行われた。袄、杉戸等の建具类や障壁の唐纸、水墨画、大小趣向を凝らした棚、畳は桂离宫御殿群の造営の歴史を物语るものである。しかし、これらの内装材も后の修理で徐々に改変されており、今回の修理ではできるだけ创建当时の姿にするために、多岐にわたる调査、试作を行って復元した。その多くは材料制作を无形文化财保持者の手で、施工を京都御所を中心に技术を伝承してきた宫内庁御用の职人たちが行った。

こうして桂离宫御殿整备工事は約6年の歳月を費やして無事故無災害で完成した。請負金は8億6,313万円、所長は水本豊弘であった。

所长は自身の书き残した手记の中で、「今后、桂离宫が管理者の手厚い保护のもとに无事维持され、次の大修理サイクルである300年先の技术者や职人たちに昭和大修理の技术的评価を受けたいものである」と记している。无事重责を果たした安堵感と自信がこの言叶に表れている。なお、当工事は58年BCS赏特别赏を受赏した。

桂离宫御殿整备
<京都府>昭和57年3月竣工
発注 宫内庁
设计 宫内庁
工事概要 第一回工事/素屋根架け(面积615㎡)、解体材格纳库(延372㎡)、古书院?中书院?楽器の间?高塀の解体および调査(延345㎡)
第二回工事/全解体修理(古书院?中书院?旧役所)、半解体修理(新御殿)、叁分解体修理(臣下控所)、延1,010㎡
(左下写真は新御殿一の间?桂棚、左下段写真は中书院一の间?违棚)
桂离宫御殿整备
<京都府>昭和57年3月竣工
発注 宫内庁
设计 宫内庁
工事概要 第一回工事/素屋根架け(面积615㎡)、解体材格纳库(延372㎡)、古书院?中书院?楽器の间?高塀の解体および调査(延345㎡)
第二回工事/全解体修理(古书院?中书院?旧役所)、半解体修理(新御殿)、叁分解体修理(臣下控所)、延1,010㎡
(左下写真は新御殿一の间?桂棚、左下段写真は中书院一の间?违棚)

拡がる建筑技术

アンボンドPRCフラットスラブ构法とジャッキシステムの活用

2度の石油危机から安定成长に移行する昭和50年代に入ると、超高层建筑は特别な工事ではなく一般化していった。わが国は近代建筑を导入してわずか100年余で超高层建筑を実现する技术を获得したのであった。建筑技术の次の开発目标はさまざまな方向に向かい、エネルギー関连技术や他产业の先端技术などから求められる复雑で困难な条件に柔软に対応する技术の开発も进められた。

その代表的なものが、免震?除振?制振技术、省エネ技术、クリーンルーム技术等々であったが(452~458ページ参照)、省力化、コストダウン、工期短缩など日常的に要求される条件や目的に即した技术も、この时期、さまざまに开発された。

その一例がアンボンドPRCフラットスラブ构法のローコストショッピングセンターであり、ジャッキシステムによって大屋根を横に引いたり吊り上げたりする横引き工法やリフトアップ工法であった。ローコストショッピングセンターには、松江ショッピングプラザ?アピア(JV)、プラーナ(安来ショッピングセンター)、レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)が50年代后半に相次いで建设された。また、ジャッキシステムによる大屋根施工の代表的な例には、万国博お祭り広场(JV)や新东京国际空港旅客ターミナル北栋(JV)があったが、50年代、60年代にその多くが集中している。

●ジャッキシステムによる代表的な大屋根施工実绩

棚仓総合体育馆アリーナ栋、横须贺市総合体育馆(JV)、上野学园综合体育馆、TBS緑山スタジオ、狭山市民総合体育馆(JV)、仙台市民体育馆(JV)、日野市民会馆(JV)、城西大学総合体育馆アリーナ栋、草加市立东部温水プール、名古屋市総合体育馆(JV)、大阪府立体育会馆(JV)、全日本空输整备本部成田工场(成田第一号格纳库)(JV)、东京都中央卸売市场大田市场(青果栋)(JV)、日本コンベンションセンター?幕张イベントホール(JV)(平成元年9月竣工)

松江ショッピングプラザ?アピア(JV)

スーパー业界は年间3,000亿円の工事量といわれる大市场であった。しかし、消费低迷の折、スーパー业界は激烈な竞争を繰り広げており、その店舗建设にも低コストが求められた。そこで当社は技术阵の総力を挙げてコスト低减のための技术开発を急いだ。松江ショッピングプラザは、その成果であるローコストショッピングセンターの第1号工事である。规模は、RC造、2阶建、延1万3,876㎡で屋上が250台収容できる驻车场となっており、工事は昭和56年(1981)5月、当社(干事会社)と松江土建、まるなか建设の3社JVでスタートした。

ここで採用したPRCフラットスラブ构法は、大スパンを可能にするアンボンドPRC构法と、梁のないフラットスラブ构法を组み合わせたもので、スペースの有効利用とともにコストダウンと工期短缩をねらいとしたものである。梁のない広い床版の施工には简単に転用できる移动式床型枠「フライングショア(FS)」を、スラブの配筋には工场生产の格子鉄筋を使用し、これら一连の躯体工事作业は熟练度を要さない作业の繰返しで、省力化と効率アップがもたらされた。さらにはフラットスラブの採用による设备工事省力化効果も大きく、こうした数々の利点が组み合わされ、その効果が相乗的に増大する点が、この构法の何よりの特长であった。请负金は19亿900万円、所长は田中定则であった。

松江ショッピングプラザ?アピア(JV)
<岛根県>昭和56年11月竣工
発注 协同组合松江ショッピングプラザ
设计 创设计コンサルタント事务所
工事概要 RC造、2F、屋上驻车场、延1万3,876㎡
松江ショッピングプラザ?アピア(JV)
<岛根県>昭和56年11月竣工
発注 协同组合松江ショッピングプラザ
设计 创设计コンサルタント事务所
工事概要 RC造、2F、屋上驻车场、延1万3,876㎡

仙台市民体育馆(JV)

当体育馆工事のハイライトは総重量1,260迟の大屋根をリフトアップ工法で吊り上げたことであった。リフトアップ工法とは、あらかじめ地上で组み立てた平面的な构造物全体を、吊上げ用ジャッキ装置を用いて所定の位置まで一気に吊り上げ架设する工法である。当工事ではリフトアップに先立ち、大屋根を吊り上げる际の反力をとる仮设柱を四隅に建てたが、1,300迟近い大屋根重量を支える重要な仮设物であり、建方の精度や溶接の品质は慎重を要した。

全长94.02m、全幅69.42mの鉄骨屋根を地上で组み立て、これを先の仮设柱に设けた総数8台の油圧ジャッキで毎分6㎝ずつ上昇させた。この大がかりな作业を円滑に进めるため、时々刻々と変化する钢棒の张力、大屋根の位置や姿势をリアルタイムで表示するパソコンを用いた自动计测システムを採用した。リフトアップは最初鉄骨屋根を地上1.7mまで吊り上げ、この状态で约3カ月、天井の仕上げ工事と设备工事を施し、その后、第2回目のリフトアップを行った。こうして大屋根を定位置(最高部23.9m)に无事吊り上げ、この下で天候に左右されることなく床、柱、壁などを顺次完成させ、体育馆は昭和59年(1984)3月竣工した。途中、第2回目のリフトアップのさなか、日本海中部地震があったが、大屋根には全く异常は発生せず、工事は続行し、当工事最大の山场を乗り越えた。この珍しい工事の见学者はマスコミはじめとして1,500人を数えた。施工は当社(干事会社)と大木建设のJVで、请负金は23亿9,894万円(设备工事は别途)、所长は阪上晴夫であった。

仙台市民体育馆(JV)
<宫城県>昭和59年3月竣工
発注 仙台市
设计 日建设计
工事概要 RC造一部S造、3F、延1万820
仙台市民体育馆(JV)
<宫城県>昭和59年3月竣工
発注 仙台市
设计 日建设计
工事概要 RC造一部S造、3F、延1万820

地方の时代(1)

デラックス化する地方庁舎

高度成长期に激しさを増した东京への一极集中への反省もあって、昭和53年(1978)ごろから“地方の时代”が提唱され始めた。こうした论议を背景に、50年代に相次いで完成した県市町村庁舎は、より一层その土地に密着した姿势を明确にしたものが多く、たとえば当社が施工した上山市庁舎や馆林市庁舎(JV)は、市の公园や文化スポーツ施设など市民広场の中心に庁舎を设け、市民のコミュニケーションセンターの役割をもたせようと意図した代表例であった。

また、このころからわが国の経済の伸长に伴った庁舎のデラックス化が评判を呼び、当社施工の北海道中标津町町役场や佐贺県の玄海町庁舎(JV)もその例であった。仓敷市庁舎(JV)は本格的美术建筑であり、大阪市庁舎(当社は第1期)(JV)や山口県庁舎本馆栋(JV)もその豪华さが大いに人目を引いた。一方、省エネ时代を反映して外断热工法を採用した北海道の上磯町役场庁舎(JV)など、机能を夸る庁舎も多い。また、环境にマッチするようデザインに最大限の配虑がなされたり、旧建物を一部保存したりするなど环境との调和がテーマとなった庁舎も多かった。熊本市役所新庁舎(JV)や先の大阪市庁舎(JV)、山口県庁舎本馆栋(JV)もその一例であった。

ほかに、この时期に当社が施工した代表的市庁舎としては、西条市庁舎、大竹市庁舎、宝塚市役所庁舎(JV)、函馆市庁舎(JV)、南阳市庁舎、戸田市庁舎があり、60年6月には広岛市庁舎(JV)、同12月に埼玉県浦和地方庁舎(JV)、61年8月に鹿児岛市庁舎东馆(JV)が完成した。県庁舎としては爱媛県庁第1别馆、福冈県庁舎行政栋(JV)、徳岛県庁舎(JV)(61年5月竣工)(63年BCS赏受赏)が、区役所として福冈市中央区役所?高速鉄道建设局合同庁舎、名古屋市北区総合庁舎があった。

また、农业协同组合がデラックスな会馆を建设し始めたのも50年代に入ってからで、その代表的なものが全国农业协同组合札幌支所、郡山市农协会馆、福井県农业会馆(JV)であり、61年10月には福岛県农协会馆も完成している。

広岛市庁舎(JV)
<広岛県>昭和60年6月竣工
発注 広岛市
设计 安井建筑设计事务所
広岛市庁舎(JV)
<広岛県>昭和60年6月竣工
発注 広岛市
设计 安井建筑设计事务所
仓敷市庁舎(JV)
<冈山県>昭和55年5月竣工
発注 仓敷市
设计 浦辺建筑事务所
仓敷市庁舎(JV)
<冈山県>昭和55年5月竣工
発注 仓敷市
设计 浦辺建筑事务所
福冈県庁舎行政栋(JV)
<福冈県>昭和56年12月竣工
発注 福冈県
设计 黒川纪章建筑都市设计事务所
福冈県庁舎行政栋(JV)
<福冈県>昭和56年12月竣工
発注 福冈県
设计 黒川纪章建筑都市设计事务所
爱媛県庁第1别馆
<爱媛県>昭和55年7月竣工
発注 爱媛県
设计 爱媛県
爱媛県庁第1别馆
<爱媛県>昭和55年7月竣工
発注 爱媛県
设计 爱媛県
徳岛県庁舎(JV)
<徳岛県>昭和61年5月竣工
発注 徳岛県
设计 徳岛県、日本设计事务所
徳岛県庁舎(JV)
<徳岛県>昭和61年5月竣工
発注 徳岛県
设计 徳岛県、日本设计事务所
福冈市中央区役所?高速鉄道建设局合同庁舎
<福冈県>昭和55年4月竣工
発注 福冈市
设计 林田设计事务所
福冈市中央区役所?高速鉄道建设局合同庁舎
<福冈県>昭和55年4月竣工
発注 福冈市
设计 林田设计事务所
宝塚市役所庁舎(JV)
<兵库県>昭和55年6月竣工
発注 宝塚市
设计 村野?森建筑事务所
宝塚市役所庁舎(JV)
<兵库県>昭和55年6月竣工
発注 宝塚市
设计 村野?森建筑事务所

大阪市庁舎(第1期)(JV)

筑后60余年を経て老朽化の激しかった大阪市庁舎が建て替えられることとなり、市政90周年を迎えた昭和54年(1979)から取壊しが开始された。

新庁舎は、53年5月にデザインコンペが実施され、採用された日建设计案に竹腰健造、村野藤吾両氏の协力を得て重厚な风格あるデザインとなっている。また、场所柄どこから见ても均整のとれた形が目指された。工事は第1期工事として工期29カ月で东侧约6割部分を施工し、続いて移転、旧庁舎の解体后、第2期工事として残りが施工され、当社はこの第1期工事を鸿池组とのJV(当社が干事会社)で担当した。

地下工事は、同じ中之岛にある日本银行での経験を生かして、OWS壁とパイルコラム工法による逆打ち工法を採用し、天満层の被圧水と连壁ジョイント部からの漏水の対策に万全を期して掘削を行った。外装工事は、花岗石打込みプレキャストコンクリート版を型枠にして躯体コンクリートを打设するGPC-W工法を採用した。

新庁舎はデザイン的には旧庁舎のイメージを発展させ、旧庁舎のメモリーを随所に生かす工夫がされていたが、一方では屋上に紧急用ヘリポートを设けるなど机能面への配虑も十分なされ、风量调整による室温制御方式および热回収システムの採用など省エネルギー対策なども万全で、重厚ななかにも近代性を採り入れた庁舎となっている。请负金は73亿2,872万円(设备工事は别途)、所长は満田 裕であった。なお、同庁舎は62年BCS赏を受赏した。

大阪市庁舎(第1期)(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 大阪市
设计 大阪市、日建設計 工事概要 SRC造、B4、8F、PH3F、延4万5,443㎡
(写真は第2期工事完成后撮影。建物右侧部分が第1期)
大阪市庁舎(第1期)(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 大阪市
设计 大阪市、日建設計 工事概要 SRC造、B4、8F、PH3F、延4万5,443㎡
(写真は第2期工事完成后撮影。建物右侧部分が第1期)

山口県庁舎本馆栋(JV)

総额250亿円が投じられた山口県庁舎本馆栋はその设计の基本を、県民に开かれた庁舎として周辺环境との调和、高度な机能、省エネルギーにおき、周辺には人工の大滝、小滝、川がつくられ、前庭には地元出身芸术家の澄川喜一氏作のモニュメント「鷺舞の谱」がそびえ立っている。当社は昭和50年(1975)に県议会栋を施工しており、さらに当工事に続いて、同一敷地内で平成2年3月、県警察本部庁舎(JV)も施工した。

重要文化财の山口藩庁正门、旧议会栋、国宝の瑠璃光寺、香山および鸿の峯の山并に囲まれた12万4,850㎡の敷地は、県庁舎敷地としては全国1、2位を争う広さと恵まれた环境をもっている。中央部に高さ70m(15阶)の高层栋(执务ゾーン)、前后に低层栋(県民?知事ゾーン)、厚生栋が并び、総延7万2,000㎡は、当时、大阪以西の最大级の工事であった。施工は56年7月から59年5月まで丸3年かけ、当社(干事会社)、鹿岛建设、竹中工务店、间组、鸿池组の5社JVが行った。

この高さでSRC造のため、そのコンクリートの品质と、高层栋外壁1万㎡の打込みタイルの品质にはとくに気を配って施工にあたった。请负金は53亿3,246万円(设备工事は别途)、所长は川村 渉であった。なお、当庁舎は61年BCS赏を受赏した。

山口県庁舎本馆栋(JV)
<山口県>昭和59年5月竣工
発注 山口県
设计 山口県、日建设计
工事概要 高层栋/SRC造、B1、15F、PH付、延5万1,944㎡、ほか2栋、総延7万2,000㎡
(左写真は平成2年12月撮影。左手前の建物は山口県警察本部庁舎。左下写真はエントランスホール)
山口県庁舎本馆栋(JV)
<山口県>昭和59年5月竣工
発注 山口県
设计 山口県、日建设计
工事概要 高层栋/SRC造、B1、15F、PH付、延5万1,944㎡、ほか2栋、総延7万2,000㎡
(左写真は平成2年12月撮影。左手前の建物は山口県警察本部庁舎。左下写真はエントランスホール)

地方の时代(2)

充実する文化?音楽?スポーツ?レジャー施设

“地方の时代”の论议は、昭和54年(1979)、55年には一段と活気を呈した。现実に地方政治に携わっている行政担当者の侧からの多くの発言も加わり、地域开発に文化?教育?福祉?雇用などを盛り込んだ、住みよいふるさと、あすの郷土づくりを目指す“地方の时代”の论议となっていった。このような情势を反映して、多目的ホールなどの施设が各地の地方公共団体によって建设されていった。こうしたもののなかには魅力ある建物も多く、それらのうち当社施工の大规模なものとしては、狭山市市民会馆、备前市民センター(JV)、四日市総合文化会馆(JV)、熊本県民文化センター(JV)があげられる。秋田県仙北郡にできた角馆町樺细工伝承馆?ふるさとセンターはそのユニークさで、また宫城県の小さな町にできた小さなホール、中新田町文化会馆?バッハホール(JV)(56年2月竣工)はその音响のすばらしさなどで、地方の时代の象徴的な建物として全国から注目された。また、これより少し前の51年5月に完成した芦屋市民センター别馆は小さいながら、53年BCS赏の受赏作品となったものであった。

このほか、各地に建设された博物馆も多く、当社は、千叶県佐仓市に国立歴史民俗博物馆収蔵库、さらに白鹿记念酒造博物馆、横须贺市人文博物馆(JV)、阿苏火山博物馆(JV)などをこの时期施工した。

スポーツ施设では、まず栃木市総合体育馆、狭山市民総合体育馆(JV)、岩出町民総合体育馆などがあげられるが、弘前克雪トレーニングセンター(JV)はそうしたなかでも大変ユニークなものであった。54年BCS赏を受赏した横浜スタジアム(JV)は53年3月に、さらに西脇马事公苑、青森市竞轮场、京都竞马场スタンド(改筑)(JV)なども国民のレジャーの多様化に応えてこの时期に完成している。美浦トレーニングセンター(北马场、第一区廐务员宿舎など)(JV)はサラブレッドの调教センターという珍しい施设であった。

また、公司も社员の健康と福祉の増强のために大规模なスポーツ施设を计画、その代表的なものが大阪ガス今津総合スポーツ施设であった。

角馆町樺细工伝承馆?ふるさとセンター
<秋田県>昭和53年11月竣工
発注 角馆町
设计 大江宏建筑事务所
角馆町樺细工伝承馆?ふるさとセンター
<秋田県>昭和53年11月竣工
発注 角馆町
设计 大江宏建筑事务所
横浜スタジアム(JV)
<神奈川県>昭和53年3月竣工
発注 横浜スタジアム
设计 创和设计
横浜スタジアム(JV)
<神奈川県>昭和53年3月竣工
発注 横浜スタジアム
设计 创和设计
国立歴史民俗博物馆収蔵库
<千叶県>昭和57年6月竣工
発注 建设省
设计 芦原建筑设计研究所
(当社担当工区は一番高い建物)
国立歴史民俗博物馆収蔵库
<千叶県>昭和57年6月竣工
発注 建设省
设计 芦原建筑设计研究所
(当社担当工区は一番高い建物)
大阪ガス今津総合グラウンド(野球场、総合体育馆及びクラブハウス増改筑)
<兵库県>昭和56年4月竣工(野球场)
昭和56年10月竣工(総合体育馆及びクラブハウス増改筑)
発注 大阪ガス
设计 安井建筑设计事务所、当社
大阪ガス今津総合グラウンド(野球场、総合体育馆及びクラブハウス増改筑)
<兵库県>昭和56年4月竣工(野球场)
昭和56年10月竣工(総合体育馆及びクラブハウス増改筑)
発注 大阪ガス
设计 安井建筑设计事务所、当社

青森市竞轮场

正面に八甲田连峰が、左に津軽海峡が见下ろせる丘陵地67万㎡で工事がスタートしたのは昭和53年(1978)7月で、竞轮场の敷地面积は22万㎡であった。土木工事は、堤高14.9mの调整池堰堤をはじめ80万?の切盛土による敷地造成、1,680mの取付道路、そして400m走路工事などがあり、一方、建筑工事は走路に面するメインスタンド栋など9栋、延2万5,000㎡であった。

当地の土质は水シラスやモンモリロナイトが含まれており、前者は触っただけでヘドロ化し、后者は水を含むと体积が10倍にも膨らむ代物であった。また、青森特有の日本海気候と太平洋気候が入り混じる天候不顺、さらに积雪で1~3月の工事中断があるなど、年间8カ月しか作业ができない土地での工事であった。

土木工事の最盛期には新鋭重机を数多く投入し、水シラスと戦いながら冬场の遅れを夏场に取り戻し、工程どおり建筑工事が着手できるよう総力を挙げた。しかし第2次石油危机のあおりで资材価格が高腾し、とくに型枠材および鉄筋材の打撃が大きかった。そのためスライド条项适用を申し出、55年から特定15品目(鉄筋、生コンクリート、骨材など)に限り救済措置がとられた。3度目の越冬后、ようやくメインスタンドの大屋根の鉄骨工事(1トラス长さ30m、重量约16迟、はね出し5m)から仕上げ工事、外构工事、驻车场工事(収容台数4,000台)を施工し、56年10月工事は完成した。请负金は土木、建筑工事合わせて69亿1,623万円、所长は阿部润次郎であった。

青森市竞轮场
<青森県>昭和56年10月竣工
発注 青森市
设计 石本建筑事务所
工事概要 土木工事/造成面积22万㎡、切盛土量80万?、道路6万5,000㎡、驻车场7万㎡、走路400m
建筑工事/メインスタンド栋(RC造一部S造、B1、8F)、ほか8栋、総延2万5,000㎡、収容観客数1万5,000人
青森市竞轮场
<青森県>昭和56年10月竣工
発注 青森市
设计 石本建筑事务所
工事概要 土木工事/造成面积22万㎡、切盛土量80万?、道路6万5,000㎡、驻车场7万㎡、走路400m
建筑工事/メインスタンド栋(RC造一部S造、B1、8F)、ほか8栋、総延2万5,000㎡、収容観客数1万5,000人

弘前克雪トレーニングセンター(JV)

当施设は、国土庁が主唱する人口の地方定住を目指す田园都市构想モデルの第1号事业で、ゆとりと活力のある地域を形成するための中核的な施设として建设された。「冬でも土を踏みながら游びやスポーツを」という愿いのもとに、面积4,128㎡、高さ18mの当体育馆床は土间で、主练习场は保温効果をねらって周囲の地盘から1m低くしてある。

主グラウンドは通常の野球场のホームベースからセンター定位置までの広さ(53m×50m)をもち、天井までの高さは打撃练习も十分できるようになっている。また、野球のほかにサッカー、ラグビー、アーチェリー、ゲートボールもでき、ナイター照明も完备している。室内暖房や融雪には温泉热を利用し、给汤?シャワーには太阳热を利用するなど省エネルギー化も図っている。さらに屋根はステンレス瓦棒葺きで、陆屋根に近いくらい勾配は缓いが、これは积もった雪を岩木山から吹きつける强い风で吹き飞ばすなど自然の力を巧みに利用する试みであった。

昭和57年(1982)2月、弘前市郊外の総合运动公园の一角で多量の雪を排除して工事を开始した。鉄骨工事では屋根に积もった雪が确実に风に飞ばされるようトラスのたわみ防止に苦心したり、外壁全面型板ガラス张りのカーテンウォール工事では、内部土间への散水や暖房による结露と冻结でサッシュ枠やガラスの破损が考えられたため、さまざまな工夫も施した。施工は当社(干事会社)と南建设のJVで、请负金は4亿8,720万円(设备工事は别途)、所长は高桥丈夫であった。

弘前克雪トレーニングセンター(JV)
<青森県>昭和57年11月竣工
発注 弘前市
设计 佐藤武夫设计事务所
工事概要 RC造一部S造、平家、4,128㎡
弘前克雪トレーニングセンター(JV)
<青森県>昭和57年11月竣工
発注 弘前市
设计 佐藤武夫设计事务所
工事概要 RC造一部S造、平家、4,128㎡

质的向上を目指す官庁施设

昭和30年代から40年代にかけて官公庁施设の不燃化や集约?合同化が强力に进められた。そして50年代に入り、こうした方向とともに公众の利便および公务の効率向上を一层図るよう施设の充実が求められていった。その一つが、东京?霞が関に见られるような官公庁施设を一定地区に适正な规模の一団地として集中配置し、他の各种都市施设の整备と相まって都市の健全な発展と秩序ある整备を図ろうという方策であった。また、地震などに対する防灾性能の强化あるいは省エネ化の推进など、官公庁施设の质的向上をねらった建替えが、50年代后半(一部60年竣工)、着実に进んでいった。霞が関の整备として通商产业省総合庁舎(JV)の大规模な建替工事(第3期)があり、地方では広岛地方贮金局庁舎(JV)、福冈法务合同庁舎(JV)、近畿邮政局庁舎増筑(第2期)、法务省名古屋拘置所(第1期)(JV)、名古屋第3地方合同庁舎、神戸第二地方合同庁舎(JV)がその代表的な工事であった。

54年度(1979年度)に初めて郵便が150億通/年を突破し、増大する郵便物に対処して郵便局の建替えもこの時期盛んで、京都中京邮便局庁舎、東京?世田谷郵便局、京都中央邮便局庁舎増筑(JV)、広島中央郵便局庁舎(JV)(60年7月竣工)などを施工した。

名古屋拘置所(第1期)(JV)
<爱知県>昭和58年3月竣工
発注 法务省
设计 法务省
名古屋拘置所(第1期)(JV)
<爱知県>昭和58年3月竣工
発注 法务省
设计 法务省
京都中央邮便局庁舎増筑(JV)
<京都府>昭和58年3月竣工
発注 邮政省
设计 邮政省
京都中央邮便局庁舎増筑(JV)
<京都府>昭和58年3月竣工
発注 邮政省
设计 邮政省

通商产业省総合庁舎第3期(JV)

霞が関官庁街の整备计画の一环であった当建物の工事は、大蔵、外务、邮政、旧通产(当社施工)各省庁の建物に囲まれ、安全にはことのほか気を配った。

当庁舎の建つ敷地の一部には当社の手で昭和31年(1956)3月に竣工した防卫庁庁舎の一部が现存しており、これを解体することから工事はスタートした。地下3阶、地上18阶の高层栋、地下2阶の车库?厚生栋から构成される新庁舎は官庁初のソーラーシステム、调光システムをはじめ近代的设备をフル装备し、鉄骨工事では1阶の柱鉄骨に板厚65㎜のものが使用された。また、当工事は全国の公共建筑工事の指针である『建筑工事共通仕様书』のS造についての仕様を新たに补うための正确なデータを提出することになっており、これも重要な仕事であった。

施工は当社(干事会社)、奥村组、浅沼组の3社JVが当たり、51カ月、约311万时间の无事故无灾害记録を打ち立て、59年6月の竣工に际しては60年労働大臣进歩赏ほか各方面から表彰状が寄せられた。请负金は59亿8,329万円(设备工事は别途)、所长は须藤贤司であった。

通商产业省総合庁舎第3期(JV)
<东京都>昭和59年6月竣工
発注 建设省
设计 建设省
工事概要 SRC造およびRC造一部S造、B3、18F、延5万2,933㎡
通商产业省総合庁舎第3期(JV)
<东京都>昭和59年6月竣工
発注 建设省
设计 建设省
工事概要 SRC造およびRC造一部S造、B3、18F、延5万2,933㎡

研究开発の新たな展开

GNPに対する研究开発费は、かつては西独が群を抜いて高かった。しかし、わが国の研究开発费も昭和53年(1978)あたりから飞跃的に増大していった。

54年度になると日本も西独并みにGNPに占める研究开発费の割合が2%を超え、56年度には5兆9,824亿円と10年前の约4倍となった。先端技术ブームを反映して民间公司、公社?公団、事业団のいわゆる「会社等」の研究开発费が着しく増加し、57年度にはわが国全体の研究开発费の6割を超えた。わが国の特徴である研究开発の民间依存は、応用开発研究偏重という指摘を招き、58年ころからこれを见直し、基础研究にも力を入れるため、政府研究费の増大が図られ始めた。

50年代后半(一部53、54年および60年竣工)、当社が施工した公的研究施设としては、原子力工学试験センター多渡津工学试験所大型高性能振动台建家(JV)、筑波研究学园都市での工业技术院化学技术研究所(JV)や高エネルギー物理学研究所の衝突型加速器施设(JV)、日本原子力研究所东海研究所高温构造机器试験栋や核融合研究所JT-60制御栋(JV)、さらには京都大学理学部付属飞騨天文台(ドームレス太阳望远镜栋)や同大学超高层电波研究センター敷地造成の工事、そして神戸市环境保健研究所などがあった。

民间では、自动车のトヨタ自动车工业豊田中央研究所事务栋および大型机械材料栋や日产自动车テクニカルセンター101?102号栋(JV)、801?802号栋、医薬の日本新薬中央研究所や日本レダリー新薬理研究栋がその代表的なものであった。そのほかに大阪ガス导管技术センターや电力中央研究所第四実験栋、ローム半导体研究センターなどをこの时期に建设した。ちなみに当社技术研究所本馆も57年4月完成をみたのであった。

工业技术院化学技术研究所(JV)
<茨城県>昭和55年3月竣工
発注 建设省
设计 建设省、日本設計?板倉建築研究所?第一工房設計監理共同企業体
工业技术院化学技术研究所(JV)
<茨城県>昭和55年3月竣工
発注 建设省
设计 建设省、日本設計?板倉建築研究所?第一工房設計監理共同企業体
日产自动车テクニカルセンター101?102号栋(JV
<神奈川県>昭和56年12月竣工
発注 日产自动车
设计 日本设计事务所
日产自动车テクニカルセンター101?102号栋(JV
<神奈川県>昭和56年12月竣工
発注 日产自动车
设计 日本设计事务所
トヨタ自动车工业豊田中央研究所
<爱知県>昭和55年9月竣工
発注 トヨタ自动车工业 设计 トヨタ自动车工业
トヨタ自动车工业豊田中央研究所
<爱知県>昭和55年9月竣工
発注 トヨタ自动车工业 设计 トヨタ自动车工业
ローム半导体研究センター
<京都府>昭和57年5月竣工
発注 ローム
设计 当社
ローム半导体研究センター
<京都府>昭和57年5月竣工
発注 ローム
设计 当社

日本新薬中央研究所

京都市南区にある当研究所は昭和60年(1985)に日本でも施行されたGLP(Good Laboratory Practice、医薬品の安全性試験の実施に関する基準)に完全に合致する研究所として計画されたものであった。このGLPでは、これら研究設備でのトラブルデータも要求されており、実験動物に、ある反応が出た場合、実験研究物質によるものか環境因子によるものかを明確にしなければならない。したがって、動物を取りまく環境を適正な条件のもとでコンスタントに連続的なものにするための器づくりが当工事のポイントであった。

床面积の3分の1を占める実験动物を収容する饲育室では、长いもので10年も継続研究が行われ、无菌、无尘、恒温恒湿の状态を研究期间中保持しなければならず、この间、建物设备にトラブルがあってはならなかった。さらに、建物の仕上げ材料は各种の消毒剤、洗剤と高温の汤にさらされるという苛酷な条件下に置かれる。

设备工事は请负金の55%を占め、その作业量には膨大なものがあったため、建筑と関连する工程については十分な配虑を行った。当工事の着工(55年2月)当初から当社でもクリーンルームに注目し医疗薬品関係建筑设备技术研究会を组织していたが、この研究会へ现场职员が参加することにより建筑と设备の调整に効果をあげることができた。请负金は48亿7,963万円、所长は吉田喜代司であった。

日本新薬中央研究所
<京都府>昭和56年12月竣工
発注 日本新薬
设计 叁菱地所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延1万3,059㎡
日本新薬中央研究所
<京都府>昭和56年12月竣工
発注 日本新薬
设计 叁菱地所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延1万3,059㎡

増大する医疗需要

昭和45年(1970)からの医科大学新设の効果で医师の不足は解消したが、一方で病院の増设が医疗需要に追いつかないという状况で、大规模な病院の建设が50年代后半に相次いだ。当社施工の代表的なものは兵库県立姫路循环器病センター、日本生命済生会付属日生病院(JV)、爱知医科大学付属病院中央栋、市立吹田市民病院、静冈県立総合病院(JV)、県立今治病院(JV)、鹤冈协立病院、山口県済生会山口総合病院(増改筑)などであり、59年3月に完成した独协医科大学越谷病院はそのなかでも最も大规模なものであった。

日本生命済生会付属日生病院(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 日本生命済生会
设计 日建设计
日本生命済生会付属日生病院(JV)
<大阪府>昭和57年1月竣工
発注 日本生命済生会
设计 日建设计
静冈県立総合病院(JV)
<静冈県>昭和57年10月竣工
発注 静冈県
设计 内藤建筑事务所
静冈県立総合病院(JV)
<静冈県>昭和57年10月竣工
発注 静冈県
设计 内藤建筑事务所
爱知医科大学付属病院中央栋
<爱知県>昭和57年3月竣工
発注 爱知医科大学
设计 黒川建筑事务所
爱知医科大学付属病院中央栋
<爱知県>昭和57年3月竣工
発注 爱知医科大学
设计 黒川建筑事务所
県立今治病院(JV)
<爱媛県>昭和58年2月竣工
発注 爱媛県
设计 佐藤武夫设计事务所
県立今治病院(JV)
<爱媛県>昭和58年2月竣工
発注 爱媛県
设计 佐藤武夫设计事务所
市立吹田市民病院
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 吹田市
设计 日建设计
市立吹田市民病院
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 吹田市
设计 日建设计

独协医科大学越谷病院

埼玉県草加市の獨協大学を皮切りに、当社は、栃木県壬生町の獨協医科大学及び同病院ほか獨協大学中央棟、獨協埼玉高等学校など昭和40年代から獨協学園関係工事をすべて特命で施工してきたが、57年(1982)2月、埼玉県越谷市で独协医科大学越谷病院を設計?施工で着手した。

同病院は、外来诊疗栋、中央病栋、东病栋の3栋、延3万2,400㎡にベッド数计637床の総合病院で、现在でも当社病院建筑の代表作といえる作品である。

着工にあたっては、地盘沉下を心配する住民370世帯全戸の现状の撮影と工事完成后と比较する资料を作り、一方、土留めには土の変位?移动を极力少なくするためOWS壁を採用するなど软弱地盘対策には最大の注意を払った。なお、杭には振动を考虑してウォール ファウンデーションを採用した。

工事着工后8カ月たった时点で、ベッド数変更の要请があり、设计担当者および现场は苦虑したが、决められた面积の中でできるだけ患者のためのスペースをとり、かつベッド数を増やすという难题に设计?施工ならではのチームワークで応えた。

病院建筑は一般ビルと比べ付帯设备が多く、それらは一层の精巧な机能が要求されるが、当病院は、ビル総合管理制御システムとして当社开発のBILCON-∑、各种の省エネ技术、および排水を再利用する中水利用设备など新システムを积极的に导入している。请负金は103亿5,432万円、所长は渋木昭一、设计は由利忠雄であった。

独协医科大学越谷病院
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 独恊学园
设计 当社
工事概要 外来诊疗栋/RC造、3F、延7,229㎡
中央病棟/SRC造、B2、8F、PH2F、延2万2,316㎡ 東病棟/RC造、3F、延2,852㎡
ほか付属栋、総延3万2,400㎡、ベッド数637床
独协医科大学越谷病院
<埼玉県>昭和59年3月竣工
発注 独恊学园
设计 当社
工事概要 外来诊疗栋/RC造、3F、延7,229㎡
中央病棟/SRC造、B2、8F、PH2F、延2万2,316㎡ 東病棟/RC造、3F、延2,852㎡
ほか付属栋、総延3万2,400㎡、ベッド数637床

魅力ある集合住宅を目指して

昭和48年(1973)や53年のマンションブームを経て、低层、中层、高层と集合住宅の型は出尽くした感があった。しかし、50年代后半に入り、マンション不况のなかにありながら、无味乾燥に陥りがちな集合住宅を润いのあるものにしようとする试みや悪条件の立地や超高层住宅に挑もうとする试みなど、さまざまな模索がなされた。一方、需要者も集合住宅に広さとともにグレードを一层求めるようになってきた。また、この时期は、その后ブームとなるワンルームマンションやリゾートマンションのはしりのころでもあった。

当社はこれまでも多种多様な集合住宅を手がけてきたが、この时期注目されたのが、都が再开発による防灾拠点として建设した都営白鬚东アパート7?8?9号栋(JV)であり、もう一つは大使馆员家族の宿舎として建设された米国大使馆叁井山宿舎であった。また、大规模なマンションにはこのほかに新大阪ファイナンス(1期?2期)、藤井寺グリーンハイツ、相武台グリーンパーク、シャンボール広交、苦楽园ヒルズ、茨木南春日丘プライムタウン、コープ野村南流山壱番街?弐番街があった。このうち、藤井寺グリーンハイツやコープ野村南流山壱?弐番街は、当社の技术开発の成果であるORC-3Hシステムを导入した工事であった。

藤井寺グリーンハイツ
<大阪府>昭和55年7月竣工
発注 东洋不动产
设计 当社
藤井寺グリーンハイツ
<大阪府>昭和55年7月竣工
発注 东洋不动产
设计 当社
苦楽园ヒルズ
<兵库県>昭和57年4月竣工
発注 野村不动产、大林不动产
设计 当社
苦楽园ヒルズ
<兵库県>昭和57年4月竣工
発注 野村不动产、大林不动产
设计 当社
相武台グリーンパーク
<神奈川県>昭和54年9月竣工(土木工事)、昭和54年2月竣工(1期)、昭和55年2月竣工(2期)、昭和55年12月竣工(3期)
発注 住友不动产
设计 当社、住友不動産
相武台グリーンパーク
<神奈川県>昭和54年9月竣工(土木工事)、昭和54年2月竣工(1期)、昭和55年2月竣工(2期)、昭和55年12月竣工(3期)
発注 住友不动产
设计 当社、住友不動産
茨木南春日丘プライムタウン
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 叁阳
设计 当社
茨木南春日丘プライムタウン
<大阪府>昭和57年6月竣工
発注 叁阳
设计 当社
シャンボール広交
<広岛県>昭和57年3月竣工
発注 広岛交通、大蔵屋
设计 都市建筑研究所、当社
シャンボール広交
<広岛県>昭和57年3月竣工
発注 広岛交通、大蔵屋
设计 都市建筑研究所、当社
コープ野村南流山壱番街?弐番街
<千叶県>昭和57年9月竣工(壱番街)
昭和58年1月竣工(弐番街)
発注 野村不动产
设计 当社
(写真奥の3栋が壱番街、手前工事中の2栋が弐番街)
コープ野村南流山壱番街?弐番街
<千叶県>昭和57年9月竣工(壱番街)
昭和58年1月竣工(弐番街)
発注 野村不动产
设计 当社
(写真奥の3栋が壱番街、手前工事中の2栋が弐番街)

都営白鬚东アパート7?8?9号栋(JV)

当建物は、大地震発生时の危険度が都内で最も高いとされていた江东デルタ地帯を灾害に强い街に生まれ変わらせるための「江东地区再开発基本构想」(昭和44年)から生まれたものであった。そのなかで最も紧急の整备が必要とされた白鬚东地区がそのモデル地区として先行、大规模な防灾拠点づくりがスタートを切った。全体计画面积38?、高さ40mの高层住栋が延长1.2㎞にわたって连続的に配置され、この建物が大地震火灾时には“防灾壁”として大きな役割を果たすという计画であった。平常时には8,000人が日常生活を営み、灾害时には住栋の内侧に设けられた避难広场に8万人の避难民を収容することができる。そのため建物自体がもつすぐれた耐震性もさることながら、火灾时には水のカーテンで建物全体をおおうドレンチャー设备、防火シャッターなど一级の防灾机能を备えていた。そのほか病院、防灾センター、学校、店舗、工场などが配置されている。

当社(干事会社)、鸿池组、多田建设、协和営造の4社JV担当部分は54年(1979)5月着工し、住栋3栋、延7万3,507㎡、戸数427戸で、保育园を併设し、前面には公园が配された。工事着手にあたり防灾拠点ビルの建设ということで构造材料の品质管理には细心の注意を払い、防灾拠点としての施设は全国で初めてであり、しかも大型プロジェクトとあって注目を集めていた现场だけに、安全?労务管理には一段と力を入れて施工に当たった。地下水槽工事におけるシート防水では有机溶剤による中毒事故防止対策を実施し、そのとき考案した换気量计算図表(换気装置の规模などを各种データから简単に割り出せる図表)は特许を取得した。また社内提案でも1等を获得し、56年度全建赏(全日本建设技术协会主催)も受赏した。请负金は29亿897万円(设备工事は别途)、所长は须藤昭であった。

都営白鬚东アパート7?8?9号栋(JV)
<东京都>昭和56年10月竣工
発注 东京都
设计 东京都、日本設計
工事概要 住宅栋/SRC造、B1、13F、PH3F
段状住栋/SRC造、B1、4F
付属棟/SRC造、B1、3F 保育所/SRC造、B1、2F 住居3DK~4DK427戸、総延7万3,507㎡
都営白鬚东アパート7?8?9号栋(JV)
<东京都>昭和56年10月竣工
発注 东京都
设计 东京都、日本設計
工事概要 住宅栋/SRC造、B1、13F、PH3F
段状住栋/SRC造、B1、4F
付属棟/SRC造、B1、3F 保育所/SRC造、B1、2F 住居3DK~4DK427戸、総延7万3,507㎡

米国大使馆叁井山宿舎

昭和58年(1983)3月、都心の六本木界隈では貴重ともいえる緑の残る一角に米国大使馆叁井山宿舎が竣工した。白壁を黒いエキスパンションジョイントで大胆に区切ったユニークな外観、内には静かな日本庭園、いかにも日米合作と呼ぶにふさわしい装いであった。

A.レーモンド氏设计の旧叁井山宿舎も当社施工で、旧ペリー、ハリス、グルー各栋は当时としては斩新なデザインの建物として有名であった。

新築の宿舎は意匠設計がHarry Weese & Associates、構造担当が木村俊彦構造設計事務所、設備担当が森村協同設計事務所で、当社は設計協力を行い、4万3,800㎡に及ぶ広大な敷地にタウンハウス2棟、タワー3棟、マリンガードクォーター1棟など住居185戸、スーパーマーケット、美容室、保育所等の共同施設、体育館、プール等のレクリエーション施設を建設した。

解体工事の着手(55年5月)にあたり、既存の建物に入居している百数十所帯の大使馆员の家族に、当社で六本木界隈に手当てした仮住居に一时移転してもらい、新宿舎の完成后に再び入居してもらう方法をとったため、建设部门のみならず不动产ほか関连部门を挙げてのプロジェクトとなった。プロジェクト?チームは、最も経済的な引越し计画と仮住居费を算出するプログラムを作成し、コンピュータによって多数の引越し计画案を比较検讨し、最适な工事着手顺序および工期を割り出して実施计画を决定した。

主要仕上げ材、主要设备机器についてはアメリカ製品を使用することが义务づけられていたが、「品质は工程でつくり込む」とのQCの基本を现场の末端まで周知彻底させることによって厳しい検査に対応、高精度、高品质の建物が完成した。请负金は175亿9,776万円で、所长は岸 隆司であった。

米国大使馆叁井山宿舎
<东京都>昭和58年3月竣工
発注 米国国务省
設計 基本設計/Harry Weese & Associates(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所(構造設計)、森村協同設計事務所(設備設計)、実施設計/当社
工事概要 S造、B2、14F、3栋ほか、総延6万1,708㎡
米国大使馆叁井山宿舎
<东京都>昭和58年3月竣工
発注 米国国务省
設計 基本設計/Harry Weese & Associates(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所(構造設計)、森村協同設計事務所(設備設計)、実施設計/当社
工事概要 S造、B2、14F、3栋ほか、総延6万1,708㎡

保険会社のビル投资が増加

昭和50年代中ごろは、わが国に生命保険会社、损害保険会社が登场してからちょうど100年を迎える时期であった。この间、とくに戦后において保険会社は飞跃的な前进を示し、ことに50年代后半からの10年间の急成长ぶりは着しいものがあった。こうした业绩の伸长を反映して、各社は自社ビルのほか、その豊富な资金を运用して全国各都市に赁贷用オフィスビルを次々建设した。

50年代后半~60年代に竣工した生保?损保発注の代表的な当社施工のオフィスビルは、东京では、日本生命新宿西口ビル、太阳生命东池袋ビル、五反田NNビル(JV)、大正海上火灾本社ビル(JV)、芝东京海上ビルディング、朝日生命日比谷ビル(JV)、大和生命ビル(JV)、AIU麴町ビル、东京海上ビルディング新馆(JV)があった。大阪では、安田火灾海上大阪ビル、日本生命堺筋本町ビル(JV)、太阳生命难波ビル、日本生命今桥ビル、日本生命上本町ビル(JV)、新大阪イトーキ日生共同ビル、明治生命堺筋本町ビル(JV)があった。

そのほかの都市では、太阳生命熊本第2ビル、日本生命広岛光町ビル(JV)、名古屋大同生命ビル(JV)、安田火灾海上福冈ビル(JV)、住友生命川崎阿倍野ビル、日本生命福山ビル(JV)、横浜西口KNビル(JV)、兴亜火灾海上日吉センター(JV)、叁井日生神戸ビル(JV)、第百生命高松ビル、日本生命大宫アネックス、太阳生命冈山柳町ビル、大同生命郡山ビル(JV)があった。これらに先立ち、日本生命博多駅前ビル、仙台东京海上ビル、野村不动产京都ビル、仙台兴和ビルなど地方都市での大规模オフィスビルは、生保?损保そして金融?証券会社発注のものが多かった。

太阳生命难波ビル
<大阪府>昭和57年10月竣工
発注 太阳生命
设计 当社
太阳生命难波ビル
<大阪府>昭和57年10月竣工
発注 太阳生命
设计 当社
大正海上火灾本社ビル(JV)
<东京都>昭和59年3月竣工
発注 大正海上火灾
设计 日建设计
大正海上火灾本社ビル(JV)
<东京都>昭和59年3月竣工
発注 大正海上火灾
设计 日建设计
芝东京海上ビルディング
<东京都>昭和59年3月竣工
発注 东京海上火灾
设计 叁菱地所
芝东京海上ビルディング
<东京都>昭和59年3月竣工
発注 东京海上火灾
设计 叁菱地所
新大阪イトーキ日生共同ビル
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 日本生命、イトーキ、山田百合子、伊藤文子
设计 当社
新大阪イトーキ日生共同ビル
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 日本生命、イトーキ、山田百合子、伊藤文子
设计 当社
朝日生命日比谷ビル(JV)
<东京都>昭和59年5月竣工
発注 朝日生命
设计 日建设计
朝日生命日比谷ビル(JV)
<东京都>昭和59年5月竣工
発注 朝日生命
设计 日建设计
安田火灾海上福冈ビル(JV)
<福冈県>昭和59年6月竣工
発注 安田火灾海上
设计 黒川纪章建筑都市设计事务所
安田火灾海上福冈ビル(JV)
<福冈県>昭和59年6月竣工
発注 安田火灾海上
设计 黒川纪章建筑都市设计事务所
AIU麴町ビル
<东京都>昭和59年10月竣工
発注 アメリカンインターナショナル アンダーライターズ ジャパン インコンポーテッド、アメリカンライフインシュアランス カンパニー
设计 久米建筑事务所
AIU麴町ビル
<东京都>昭和59年10月竣工
発注 アメリカンインターナショナル アンダーライターズ ジャパン インコンポーテッド、アメリカンライフインシュアランス カンパニー
设计 久米建筑事务所
横浜西口KNビル(JV)
<神奈川県>昭和61年3月竣工
発注 北见木材、日本生命
设计 当社
横浜西口KNビル(JV)
<神奈川県>昭和61年3月竣工
発注 北见木材、日本生命
设计 当社

安田火灾海上大阪ビル

长く当社が保有し市内现场の资材置场、詰所等に利用していた大阪市东区瓦町5丁目の土地を安田火灾海上に譲渡し、ここに同社の西日本の拠点となる大阪ビルが建设された。

昭和54年(1979)9月工事がスタート、地下工事にはOWS工法を採用、地上躯体工事では12阶以上をコンクリート2段打ちで行ったが、最も特徴的なことは、低层部の外壁石贴りを乾式工法で施工した点であった。当时は乾式工法が採用され始めた初期のころであったため十分な検讨を経て施工に当たったが、ファスナーをオールステンレスにして発錆トラブルの絶灭を期するなどの工夫を行った。万一天灾に遭遇しても损保会社として最后まで残る建物であってほしいという希望から、防灾の権威である故星野昌一、松下清夫両博士の基本设计、工事监理のもとに施工し、とくに主筋の圧接などではその品质管理を厳格にしたほか、PC板等も当社技术研究所において振动実験を繰り返し万全を期した。请负金は70亿1,550万円、所长は小栗武男であった。

安田火灾海上大阪ビル
<大阪府>昭和57年2月竣工
発注 安田火灾海上
设计 星野研究室、松下研究室、当社
工事概要 SRC造、B3、12F、PH2F、延2万4,923㎡
安田火灾海上大阪ビル
<大阪府>昭和57年2月竣工
発注 安田火灾海上
设计 星野研究室、松下研究室、当社
工事概要 SRC造、B3、12F、PH2F、延2万4,923㎡

太阳生命东池袋ビル

当ビルの敷地は以前大林不动产が驻车场として使用していたが、これを太阳生命に売却し、同社が当初から赁贷ビルとして计画したものであった。一括テナントは日本信贩で、同社の専用计算センターとして使用され、地下の一部は东京电力の変电所となっている。このように当ビルは日本信贩の中枢机能を担うため、耐震性はもちろん、防灾?防犯设备にも十分な配虑がされており、玄関ホールから奥へは二重扉で、磁気カードがなければこの入口や主要各室の出入りもできないようになっている。また、定电圧定周波制御装置(CVCF)をもち、バッテリーと组み合わせた无停电システム、コンピュータ室の上阶床の防水、电気?空调制御のための当社开発のBILCON-∑など、その设备はどのようなアクシデントにも対応できるものとなっている。

外観は大部分コンクリート打放し吹付けタイル仕上げのため、クラック防止の工夫も施し、また主要壁や天井には断热材を打ち込み、结露防止策とした。

昭和56年(1981)3月に着工したが、池袋サンシャインシティに近いため地域冷暖房の指定区域となっており、サンシャインシティ内の东京电力の地下変电所につながる洞道工事および地域冷暖房への洞道工事も并行して行った。请负金は43亿8,863万円、所长は山本 一であった。

太阳生命东池袋ビル
<东京都>昭和57年10月竣工
発注 太阳生命
设计 当社
工事概要 SRC造、B2、8F、PH付、延1万3,798㎡
太阳生命东池袋ビル
<东京都>昭和57年10月竣工
発注 太阳生命
设计 当社
工事概要 SRC造、B2、8F、PH付、延1万3,798㎡

日本生命今桥ビル

当建物は、大阪のビジネス街の真っただ中に立地しながら、北侧に绪方洪庵の开设した「适塾」、西侧に大阪市最古の木造幼稚园である爱珠幼稚园に隣接している。そのため、これらの环境に十分マッチした建物であることが要求され、総合设计制度を适用した当社の设计は、公开空地を広くとり、适塾の西侧は市民の憩いの公园とし、さらにサンクンガーデンも设け、外壁もこうした环境に十分配虑したものとなっている。

昭和58年(1983)9月着工、施工にあたっては、人手不足の折、できるだけ现场作业を少なくする工法を採用し、外壁は大型磁器タイル打込みPC板、内装は极力乾式工法を採り入れた。また土留めにはOWS壁を採用したが、周辺の交通事情から生コンの连続打设が困难であり、また场所柄、十分な止水性が必要であったため、止水壁である根入れの深い自硬性安定液の硬化体部分と、地下の外壁となるPC板部分との组合せで合理的な计画ができるプレキャストベースメント工法(PB工法)を採用した。止水性、精度、强度とも十分な结果が得られ、构造体としても利用したため敷地を有効利用でき、肌が美しいのでそのまま地下室の内壁とし、工费の节约にも贡献した。PB工法による地中连続壁をこのようなかたちで利用したのは初めての试みであった。请负金は44亿6,022万円、所长は高田利明、设计は藤绳正俊である。

なお、当建物は62年大阪都市景観建筑赏「まちなみ赏」大阪市长赏を受赏、また63年には緑化庭园として大阪市より表彰された。

日本生命今桥ビル
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 日本生命
设计 当社
工事概要 S造およびSRC造、B1、14F、PH2F、延1万6,802㎡
日本生命今桥ビル
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 日本生命
设计 当社
工事概要 S造およびSRC造、B1、14F、PH2F、延1万6,802㎡

多様化?高度化する物流ニーズに応えて

わが国の国内货物输送量は、昭和55年(1980)に59亿8,500万迟と最高を示したが、高度成长时代のような激増倾向は影をひそめ、50年代は时としてマイナス成长を示すこともあった。しかし、国内货物输送に占める自动车の分担率は伸び続け、57年ついに90%を超えるに至った。

消费の伸びの钝化と生活様式や嗜好の多様化、个性化の倾向に対応して、供给侧は多品种少量の生产?贩売を进め、その结果、物流にも多品目少量、小口高频度、迅速配送が求められた。こうした多様化、高度化する物流ニーズに応えて、输送、保管、包装、荷役から在库管理、流通加工に至るまですべてを総合化、システム化した一贯物流サービスを提供する総合物流业が台头し、自动化された物流センターや仓库が数多く建设された。また、乳製品、食肉、野菜など生鲜食料品の安定供给など高度化した物流ニーズに応えるため、各地での卸売市场の整备や冷冻仓库の建设も、この时期、相次いで进められた。「宅配便」が登场し急速に発展したのもこの50年代のことであった。

50年代に建设された代表的な仓库?物流センターとしては、日产自动车茅ヶ崎(输出车輌)出荷センター六层保管栋、东京団地仓库足立仓库?同南栋(JV)、东京水产ターミナル大井埠头冷蔵上屋および仓库(3号栋)、大阪玩具流通センター、食粮庁大阪食粮事务所茨木仓库(第1期?第2期)、叁星堂兵库物流センター、丸红冷蔵大阪南港埠头工场、中京佐川急便配送センター、日本食肉流通センター部分肉流通センター(JV)、関东邮船运输大森平和岛仓库、スリーエム物流仓库爱川物流センター(JV)、大阪アパレルファッションセンター、武田薬品工业大阪物流センターなどがあげられる。そして、世界有数の规模の冷蔵仓库であった东京水产ターミナルの大井埠头冷蔵仓库4号栋もこの时期完成した。

生鲜食料品の卸売市场としては、京都市中央卸売市场第一市场青果1?2号栋(JV)、松山市中央卸売市场(水产市场)、冈山市新中央卸売市场(青果卸売栋?水产物卸売栋?地场そ莱栋)(JV)、川崎市中央卸売市场北部市场水产栋、大阪市中央卸売市场食肉市场本馆(大阪市ミートセンター本馆)がこの时期に完成をみた。

物流の末端?小売业では个人消费が低迷を続け、百货店、スーパーともに苦戦を强いられていたが、百货店はリニューアルなど、スーパーは合併などさまざまな経営努力が払われていた时期でもあった。50年代后半に完成した店舗のうち代表的なものは、ひめじ花の北モールA栋(にしのまち)?B栋(ダイエー花北店)、本城ショッピングセンター、松竹大船ショッピングセンター(JV)、松江ショッピングプラザ?アピア(JV)、仙台駅前开発ビル(ams西武仙台)(JV)、京都ファミリー(JV)、アメ横センタービル第1期(JV)、大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)、もと千日デパートで火灾から再建されたエスカールビルそしてレイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)などがある。

松山市中央卸売市场(水产市场)
<爱媛県>昭和56年3月竣工
発注 松山市
设计 梓设计
松山市中央卸売市场(水产市场)
<爱媛県>昭和56年3月竣工
発注 松山市
设计 梓设计
ひめじ花の北モールA栋(にしのまち)?B栋(ダイエー花北店)
<兵库県>昭和56年3月竣工(花の北モールにしのまち)
昭和57年11月竣工(ダイエー花北店)
発注 花北モール开発
設計 RIA建築綜合研究所 (左写真がダイエー花北店、左下写真が花の北モールにしのまち)
ひめじ花の北モールA栋(にしのまち)?B栋(ダイエー花北店)
<兵库県>昭和56年3月竣工(花の北モールにしのまち)
昭和57年11月竣工(ダイエー花北店)
発注 花北モール开発
設計 RIA建築綜合研究所 (左写真がダイエー花北店、左下写真が花の北モールにしのまち)
エスカールビル
<大阪府>昭和58年9月竣工
発注 日本ドリーム観光
设计 大建设计
エスカールビル
<大阪府>昭和58年9月竣工
発注 日本ドリーム観光
设计 大建设计
大阪市中央卸売市場食肉市場本館 (大阪市ミートセンター本館)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 大阪市
设计 大阪市
大阪市中央卸売市場食肉市場本館 (大阪市ミートセンター本館)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 大阪市
设计 大阪市
レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)
<千叶県>昭和59年2月竣工
発注 臼井ショッピングセンター协同组合、ジャスコ
设计 当社
レイクピアウスイ(臼井ショッピングセンター)
<千叶県>昭和59年2月竣工
発注 臼井ショッピングセンター协同组合、ジャスコ
设计 当社
松竹大船ショッピングセンター(JV)
<神奈川県>昭和56年5月竣工
発注 松竹
设计 I.N.A.新建筑研究所
松竹大船ショッピングセンター(JV)
<神奈川県>昭和56年5月竣工
発注 松竹
设计 I.N.A.新建筑研究所
仙台駅前开発ビル(ams西武仙台)(JV)
<宫城県>昭和57年1月竣工
発注 中央一丁目第一地区市街地再开発组合
设计 久米建筑事务所
仙台駅前开発ビル(ams西武仙台)(JV)
<宫城県>昭和57年1月竣工
発注 中央一丁目第一地区市街地再开発组合
设计 久米建筑事务所
アメ横センタービル第1期(JV)
<东京都>昭和57年11月竣工
発注 上野振兴、上野ストアー协同组合
设计 构造计画研究所、荒木建筑事务所
アメ横センタービル第1期(JV)
<东京都>昭和57年11月竣工
発注 上野振兴、上野ストアー协同组合
设计 构造计画研究所、荒木建筑事务所

东京水产ターミナル大井埠头冷蔵仓库4号栋

东京港はわが国の输入水产物の约40%を陆扬げする水产物流通の拠点港である。この时期、港湾の整备は専门埠头方式によって効率化、合理化が进められていたが、东京都では大井埠头南端に水产物専门埠头を计画し、これに呼応して东京水产ターミナルが设立され、大规模冷蔵仓库を中心とする一大施设がここに建设されることとなった。

第1期工事として昭和49年(1974)~53年に内容量4万迟の冷蔵仓库3栋を建设し(当社は3号栋を施工)、第2期工事として当4号栋を55年2月当社単独で着手したのであった。幅53m×长さ184m×高さ30mの5阶建の仓库で、内容量は6万5,000迟に达し、これは多层阶冷蔵仓库としては世界一の规模であった。

杭工事では、直径550~770㎜、长さ55~65mの钢管杭を703セット、総重量约1万迟を打ち込んだ。基础部分のオープン掘削では予想以上に涌水量が多く、また记録的な降雨量で难航した。当工事の特徴である延5万㎡に及ぶ大规模RC造の躯体工事では、床积载荷重が大きく、约6mという阶高の高い建物であるため在来のRC工法では型枠、鉄筋工事の作业性が悪く、安全性、精度、品质、工期の点で问题があった。そこでVH分离工法を基干とするシステムを採用した(当社开発の同システム、OVH工法については前章406ページを参照)。

当冷蔵仓库は、夏季では内外温度差は60~65℃に达するため建物外壁外侧に断热层をつくる外防热方式がとられた。冷蔵仓库の性能を左右する最大のポイントはこの防湿防热工事であるため品质管理には一段と力を入れるとともに、使用材料がすべて可燃性、引火性の强い材料で、その使用量も多量であるため防火管理には最大の注意を払った。请负金は48亿1,200万円(设备工事は别途)、所长は佐藤和男であった。

东京水产ターミナル大井埠头冷蔵仓库4号栋
<东京都>昭和56年7月竣工
発注 东京水产ターミナル
设计 梓设计
工事概要 冷蔵库栋/RC造、5F、延5万㎡
事务所栋/S造、2F、延1,330㎡
(一番长い建物が4号栋)
东京水产ターミナル大井埠头冷蔵仓库4号栋
<东京都>昭和56年7月竣工
発注 东京水产ターミナル
设计 梓设计
工事概要 冷蔵库栋/RC造、5F、延5万㎡
事务所栋/S造、2F、延1,330㎡
(一番长い建物が4号栋)

加工组立型产业の工场建设

製造业のうち自动车や家电などの加工组立型产业は、2度にわたる石油危机による不况から比较的早く立ち直り、昭和50年代前半から成长を続けた。コストインフレに対処するための合理化や技术革新を积极的に进めてきたことが実を结んだのである。これを背景として有力公司の新规工场建设、设备更新投资が相次いだ。

自动车产业ではトヨタ自动车工业が新しく衣浦工场と田原工场を建设し、当社もその建设に携わった。40年代に第1工场(请负金36亿5,600万円、设备工事は别途)などを建设した下山工场ではこの时期拡充工事を行い、ここでは当社は第3工场(请负金45亿9,290万円、设备工事は别途)の工事に携わった。

日产自动车では、40年代にも栃木工场、座间工场などで当社は多くの工场栋を建设したが、50年代に入り、同社の大规模工事として、相模原部品センター5?6号栋、九州工场圧造工场、横浜工场久里浜分工场机械工场?同工场第2期第1次?第2次増筑、追浜叁地区工机工场などの工事に携わった。

このほか50年代に施工した代表的な自动车工场としては、ダイハツ工业の滋贺(竜王)工场第3机械工场?第4机械工场、同第二用地プレス板金工场があり、同社ではこれらに先立ち40年代后半に京都工场プレス工场第2期工事を行っている。富士重工业では矢岛工场第2涂装工场?第2艤装工场、また、いすゞ自动车では藤沢工场设备试作工场?同工场プレス工场およびパネルストア(増筑)を施工した。さらに自动车関连工业として日本电装第二安城212工场、ブリヂストン?ベカルト?スチールコード佐贺工场新设および第2F栋の工事にもこのころ携わった。

50年代(一部60年、61年竣工)の代表的なその他の机械工业の工场建设としては、OA机器やカメラなどで発展するキヤノンの各工场があった。取手(茨城)、宇都宫、福岛、上野(叁重)、长浜、平塚(神奈川)、小杉(神奈川)、大分キヤノンの各工场やコンポーネント开発センター、さらに下丸子(神奈川)本社各栋などで当社は相次いで工事を行った。

同様にOA机器メーカーの富士ゼロックスでは竹松工场で多くの工场栋を施工、VTR、音响机器関係では松下电器产业ビデオ事业部北门真工场、日本マランツ本社工场(音响机器)、电気机械工场では叁洋电机北条製造事业部镇岩工场(扇风机)の工场建设があった。ほかに日立製作所中条工场製缶工场変圧器工场(49年10月竣工)、叁菱重工业神戸造船所二见大型机器工场(JV)、叁菱长崎机工深堀工场K栋他(JV)、サンクス本社工场(各种センサー)、さらに岛津製作所ではN1号馆、E27号馆、E2号馆、计测新工场(JV)ほかの工场建设を、エヌ?テー?エヌ东洋ベアリングでは冈山製作所?长野製作所?磐田製作所?宝塚工场の各栋もこのころ完成している。

机械以外の工场としてこのころ当社が施工した代表的なものは、日东纺绩泊工场、日本パルプ工业日南工场8号抄纸机建家、高瀬染工场、小野田セメント藤原工场?津久见工场各栋、トーモク馆林(ダンボール)、武田薬品工业光工场各栋、日本商事冈山製薬工场、カネボウ?エヌエスシー新工场および第2期(JV)(コーキング材)、麒麟麦酒滋贺工场2期?3期増设、アデランス工芸アデランス文化の森、ダイアホイル山东工场各栋(磁気テープ)、北东北くみあい饲料新工场、帝人宇都宫工场UP(ビデオテープ)、东北金属工业白石工场、サントリー梓の森プラント1期?2期各栋、春本鐡工所和歌山工场(JV)、宫地鐡工所千叶工场第1期などの各工场がある。(なお半导体产业については次章で述べる。)

ダイハツ工业滋贺(竜王)工场第4机械工场
<滋贺県>昭和55年2月竣工
発注 ダイハツ工业
设计 当社
ダイハツ工业滋贺(竜王)工场第4机械工场
<滋贺県>昭和55年2月竣工
発注 ダイハツ工业
设计 当社
大分キヤノン81A第1期(管理栋?A栋)
<大分県>昭和57年10月竣工
発注 キヤノン
设计 当社
大分キヤノン81A第1期(管理栋?A栋)
<大分県>昭和57年10月竣工
発注 キヤノン
设计 当社
岛津製作所E27号馆
<京都府>昭和56年5月竣工
発注 岛津製作所
设计 当社
岛津製作所E27号馆
<京都府>昭和56年5月竣工
発注 岛津製作所
设计 当社
エヌ?テー?エヌ东洋ベアリング长野製作所(第1期)
<长野県>昭和60年2月竣工
発注 エヌ?テー?エヌ东洋ベアリング
设计 日建设计
エヌ?テー?エヌ东洋ベアリング长野製作所(第1期)
<长野県>昭和60年2月竣工
発注 エヌ?テー?エヌ东洋ベアリング
设计 日建设计
东北金属工业白石工场
<宫城県>昭和60年4月竣工
発注 东北金属工业
设计 I.N.A.新建筑研究所
东北金属工业白石工场
<宫城県>昭和60年4月竣工
発注 东北金属工业
设计 I.N.A.新建筑研究所

トヨタ自动车工业衣浦工场机械工场?粗型材工场および田原工场第3组立涂装工场

衣浦工场は爱知県碧南市の衣浦临海工业地帯の埋立地33万㎡に立地し、同社初の临海工场でもあった。そのため潮风や地盘沉下等に対する対策を十分配虑したグレードの高い仕様となっている。

当社は粗型材工场と机械工场を建设し、その施工に际しては、建设资材等の陆路搬入が大幅に制限されたため、钢管基础杭(长さ26m)1,050本は海上输送となり、これらを直打ち施工したが、こうした悪条件は逆に工期短缩、コスト低减にプラスの要因となった。昭和52年(1977)3月着工以来わずか1年、53年2月工事は完成、同年8月には新工场がオープンした。请负金は土木、建筑工事合わせて53亿8,451万円(设备工事は别途)、所长は石井 明であった。なお、61年には第4工场ほか(请负金55亿9,369万円、出口光蔵所长)を増设した。

一方、组立工场として计画された田原工场は、爱知県东叁河临海工业地帯に同県公司局が造成中の敷地约300万㎡に立地している。同社としては、完成车の组立工场として初めて豊田市の本社工场を离れた工场であった。53年2月第1期工事(第1组立涂装工场?他社施工)に続き、第2期工事がスタート、当社はこのうち第3组立涂装工场を施工した。新工场は、45年に稼働した堤工场以来の乗用车一贯工场であって、これまで培ってきた生产技术の粋を集め、平家ながら延6万㎡余の大工场であった。また、当工事に伴う土木工事(土间、机械基础ほか)も行い、56年1月工事は完了した。请负金は土木、建筑工事ともで46亿7,970万円、所长は田辺清司である。

また、これらに先立ち、52年11月~53年4月に14万8,000㎡の敷地の地盘改良工事(请负金5亿8,000万円)、53年6月~54年1月の原动力ゾーン(2A)新设工事も行った。さらに、54年10月から56年6月の间、田原工场従业员のための独身寮も相次いで建设した。

田原工场ではその后60年代に入り、第2车体工场(请负金43亿4,393万円)、第2车体工场プレスピットおよび土间工事(请负金38亿9,095万円)など大规模な拡充工事を行っている。

トヨタ自动车工业衣浦工场机械工场?粗型材工场
<爱知県>昭和53年2月竣工
発注 トヨタ自动车工业
设计 トヨタ自动车工业
工事概要 机械工场/S造、平家、6万2,435㎡
粗型材工场/S造、平家、2万2,388㎡
トヨタ自动车工业衣浦工场机械工场?粗型材工场
<爱知県>昭和53年2月竣工
発注 トヨタ自动车工业
设计 トヨタ自动车工业
工事概要 机械工场/S造、平家、6万2,435㎡
粗型材工场/S造、平家、2万2,388㎡
トヨタ自动车工业田原工场第3组立涂装工场
<爱知県>昭和56年1月竣工
発注 トヨタ自动车工业
设计 トヨタ自动车工业
工事概要 S造、平家一部中2阶、延6万3,541㎡
トヨタ自动车工业田原工场第3组立涂装工场
<爱知県>昭和56年1月竣工
発注 トヨタ自动车工业
设计 トヨタ自动车工业
工事概要 S造、平家一部中2阶、延6万3,541㎡

日产自动车横浜工场久里浜分工场机械工场

同社は、乗用车の小型化戦略の一环として前轮駆动车用エンジンの主力工场とすべく、昭和56年(1981)4月、久里浜の敷地16万5,000㎡にエンジン工场の新设を行った。

当地はもと沼地で地盘が极度に悪く、地盘沉下が进行しており、さらに同工场は床の积载荷重が大きいうえ、省力化、无人化のため机械自体も大型化しており、软弱地盘対策が强く求められた。そこですべての构造物は、1阶土间および地下埋设配管等も含め、地下36mまでの支持杭で支えることとした。このためPC杭3本継ぎを约2,000本打设し、建筑面积2万1,000㎡の建物を支持した。付帯设备建家を含め约3万3,000㎡の工场は着工以来8カ月で完成した。その后、第2期工事にも着手し、総请负金は71亿2,660万円にのぼった。所长は神前文夫である。

日产自动车横浜工场久里浜分工场机械工场
<神奈川県>昭和56年11月竣工
発注 日产自动车
设计 当社
工事概要 机械工场/S造、2F、延3万182㎡
エンジンテスト工场/S造、平家、2,981㎡
日产自动车横浜工场久里浜分工场机械工场
<神奈川県>昭和56年11月竣工
発注 日产自动车
设计 当社
工事概要 机械工场/S造、2F、延3万182㎡
エンジンテスト工场/S造、平家、2,981㎡

大型化する海外工事

日本の建设业の海外受注実绩は1973年(昭和48)以降着実に増加してきており、その上昇カーブは、1980年9月のイラン?イラク戦争の影响で一时ダウンしたが、その后再び上昇をみせ始めた。とくにアジアでの伸びは坚调で、1979年度には全体の6割をアジアでの受注が占めていた。そして1979年度でみると受注件数が减少したものの受注高は前年度を上回っており、これは工事の大型化が进んでいること、また日本の高度な建设技术がこうした大型工事の受注に大いに寄与したことをうかがわせるものであった。

この时期、タイでバンコック银行本店ビルを、シンガポールで东部海岸埋立第6?第7期(JV)を施工しているが、前者は现在でもタイ大林の工事実绩のなかで最大のものであり、后者は300亿円を超える大型工事であった。ほかに现地法人SJCC社が施工したサウジアラビア?リヤド大学各种施设も140亿円近い大规模な工事であった。また、インドネシアではアサハン?アルミニウム製錬工场焼成工场が1981年9月に完成した。

シンガポールではこのころチャンギー国际空港の工事が进んでおり、このコントロールタワー工事ではリフトアップ工法が、前述の东部海岸埋立工事では连続埋立土工システムが、またバンコック银行本店ビルではタイ国初のOWS工法が、というように当社の夸る技术が海外工事でも大いに威力を発挥した。日本のゼネコンとして初めての米国における公共土木工事の受注となったサンフランシスコ市下水道工事(JV)でも、土圧バランス式シールド工法で软弱地盘に挑んだのであった。

リヤド大学(SJCC)
<サウジアラビア?リヤド市>1980年8月竣工
発注 リヤド大学
設計 Hellmuth, Obata & Kassabaum(土木工事) COMTEC(伊)(建築工事)
(写真は构内道路?体育施设)
リヤド大学(SJCC)
<サウジアラビア?リヤド市>1980年8月竣工
発注 リヤド大学
設計 Hellmuth, Obata & Kassabaum(土木工事) COMTEC(伊)(建築工事)
(写真は构内道路?体育施设)
チャンギー国际空港(地盘改良工事のみJV)
<シンガポール>1980年3月竣工(地盘改良)、1980年11月竣工(驻机场舗装)、1981年1月竣工(コントロールタワー)、1981年8月竣工(货物ターミナルビル)
発注 シンガポール政府公共事业省、シンガポール空港サービス(货物ターミナルビルのみ)
设计 シンガポール政府公共事业省(地盘改良工事については当社?不动建设JVと共同设计、コントロールタワーについてはチャンギー空港开発省と共同设计)
チャンギー国际空港(地盘改良工事のみJV)
<シンガポール>1980年3月竣工(地盘改良)、1980年11月竣工(驻机场舗装)、1981年1月竣工(コントロールタワー)、1981年8月竣工(货物ターミナルビル)
発注 シンガポール政府公共事业省、シンガポール空港サービス(货物ターミナルビルのみ)
设计 シンガポール政府公共事业省(地盘改良工事については当社?不动建设JVと共同设计、コントロールタワーについてはチャンギー空港开発省と共同设计)
アサハン?アルミニウム製錬工场焼成工场
<インドネシア?北スマトラ州>1981年9月竣工
発注 P. T. Indonesia Asahan Aluminium
設計 P. T. Indonesia Asahan Aluminium、当社
アサハン?アルミニウム製錬工场焼成工场
<インドネシア?北スマトラ州>1981年9月竣工
発注 P. T. Indonesia Asahan Aluminium
設計 P. T. Indonesia Asahan Aluminium、当社

バンコック银行本店ビル

バンコック银行は东南アジアの民间银行として最大规模のもので、拡大する业务に対応して、その本店をバンコック市の新しいビジネス街シーロム通りに建设することとなった。规模は地下1阶、地上32阶、轩高125m、延12万2,600㎡という巨大なRC造で、メコンデルタシルト层に建设されるタイ国最高、そして最大规模の高层建筑物であり、最新式の近代施设を完备したバンコック市のランドマークとなる建物であった。

工事は1977年(昭和52)3月から39カ月の予定でスタートしたが、チャオプラヤ河の河口に位置するバンコック市の地盘は软弱な厚い粘土の堆积で、どこまで掘っても泥といった难物であった。したがって、それまでの多くの建物の基础は摩擦杭によって支持するものであり、また掘削の困难さから深く大きな地下阶をもつ建物は造れなかった。当工事では総重量15万迟余の高层ビルの支持杭としてウォール ファウンデーション工法を、山留めとして地中连続壁をOWS工法で実施することによってこれに挑んだ。当地初の工法ということで発注者、设计者の理解を得るまでに时间がかかったが、5年の工事を通じて、OWS工法がこの地の地盘に十分适合することを実証した。

工事着手1年后から2年间にわたる第2次石油危机による建设诸资材の値上がりは异常なもので、たとえば、労务费は2倍半、型枠用木材は3倍、セメントおよび骨材は2倍近い値上がりとなった。この工事のコンクリート量が9万3,000?、型枠面积が40万㎡余、鉄筋鉄骨量が1万2,000迟という规模であったことから、この値上がりは、地盘に対する技术的问题とともに大いに现场を苦しめた。请负金は6亿8,929バーツ(邦货约68亿9,289万円)、所长は中野 裕であった。

バンコック银行本店ビル(タイ大林)
<タイ?バンコック市>1982年2月竣工
発注 バンコック银行
設計 CASA(意匠設計)、Dr.Rachot Kanjanivanit and Consulting Engineers(構造設計)、Unorn and Associates(設備設計)
工事概要 RC造およびSRC造、B1、32F、延12万2,600㎡
(左下写真は営业室)
バンコック银行本店ビル(タイ大林)
<タイ?バンコック市>1982年2月竣工
発注 バンコック银行
設計 CASA(意匠設計)、Dr.Rachot Kanjanivanit and Consulting Engineers(構造設計)、Unorn and Associates(設備設計)
工事概要 RC造およびSRC造、B1、32F、延12万2,600㎡
(左下写真は営业室)

シンガポール东部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6?第7期)(JV)

シンガポール东部海岸埋立工事は、1965年(昭和40)の第1期工事以来、第8期工事まで、第4期と第8期を除いてすべて当社が単独あるいはJVで施工している。こうした豊富な経験を生かし、1992年には新たに「チャンギー东埋立工事第1期A工区」を受注し、1992年现在、埋立面积490?、埋立土量6,000万?の过去最大の埋立工事を行っている。

1971年3月から1975年12月にかけて施工した第3期工事は、第1?第2期(1971年3月竣工、福田邦雄所长)が直営方式であったのと异なり、现地业者との下请契约による施工であった。埋立面积67?、埋立土量484万9,416?などで、埋立地は高速道路の用地とともにホテル、デパート等を中心とした商业地域として开発されつつある。第3期工事の请负金は2,208万9,535シンガポールドル(邦货约25亿円)、所长は片冈 勇から近藤慎一に引き継がれた。

一方、第5期工事は1974年3月から1977年12月に施工し、埋立面积154?、埋立土量1,600万?で当社と五洋建设のJVで施工し、当社の担当は捨石量34万5,700?の捨石护岸工事であった。「明けても暮れてもバージで积んで运んできた大小さまざまの石を海中に投入し整形する工事だったのですが、シンガポール自体には石が少なく、毎日“石よ石よ”と梦にまで出てくる始末」(所长谈)という状况下で、マレーシア、インドネシアに石集めに奔走した。请负金は2,552万4,907シンガポールドル(邦货约29亿9,000万円)、所长は君嶋暁であった。

そして1978年、当时东南アジアで日本のゼネコンが受注した工事としては最大の埋立工事第6?第7期工事を当社とりんかい建设とのJV(当社が干事会社)で受注し、第5期工事终了后间もない1979年1月、工事はスタートした。约1年かけて土取场の整地と全长6㎞に及ぶベルトコンベア设置を进め、その后约5年间、1日24时间、1年365日休むことなく约4,000万?の土を切り、运び、埋立面积430?の土地を造成した。

工法は当社が开発した连続埋立土工システムであり、当システムは、土砂の掘削から积出し、転圧に至るまで、そのすべての作业を机械化した一贯システムであった。採用した机械の代表的なものは、连続して掘削することが可能な大型バケットホイールエキスカベータ(BWE=SH630型)で、第6?第7期用にそれまでのうちの最大のもの(全长45m、重量325迟)を2台西独より购入し、当地の土质に最适な连続埋立土工システムに设计し直し改良して使用した。こうした机械をいかにして运転を止めず、稼働率を上げ、生产性を向上させるか厳しい运転管理体制がとられ、コンピュータによる掘削データの情报管理システムや中央管理室における集中连络管理、日本人オペレータによる熟练运転工の育成など少しでも出土量を増やす工夫が絶え间なく続けられ、6年という歳月をかけたこの超大型工事は1985年1月完成した。请负金は4亿1,400万シンガポールドル(邦货约330亿8,413万円)にのぼり、所长は花嶋晴道であった。

なお、こうした机械化一贯システムは、その后、関西国际空港空港岛へ埋立土砂を送り出した阪南丘陵土砂採取工事(JV)でも大いに生かされた。

シンガポール东部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6?第7期)(JV)
<シンガポール>1975年12月竣工(第3期)、1977年12月竣工(第5期)、1985年1月竣工(第6?第7期)
発注 シンガポール政府住宅开発局
设计 シンガポール政府住宅开発局
工事概要 第3期/埋立面積67?、埋立土量484万9,416? 第5期/埋立面積154?、埋立土量1,600万?、捨石護岸工事(捨石量34万5,700?)延長7㎞ 第6?第7期/埋立面積430?、埋立土量4,000万?
(左下段写真は第1~第3期埋立地に完成した街并み、左写真および左下写真は第6?第7期工事中)
シンガポール东部海岸埋立(第3期)(第5期)(第6?第7期)(JV)
<シンガポール>1975年12月竣工(第3期)、1977年12月竣工(第5期)、1985年1月竣工(第6?第7期)
発注 シンガポール政府住宅开発局
设计 シンガポール政府住宅开発局
工事概要 第3期/埋立面積67?、埋立土量484万9,416? 第5期/埋立面積154?、埋立土量1,600万?、捨石護岸工事(捨石量34万5,700?)延長7㎞ 第6?第7期/埋立面積430?、埋立土量4,000万?
(左下段写真は第1~第3期埋立地に完成した街并み、左写真および左下写真は第6?第7期工事中)
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