昭和恐慌から败戦への道
昭和时代は大正を引き継いだ后、史上最长の64年を记録した。そして明らかに性格の违う前半と后半とに二分される。本章に述べるのはその前半、すなわち不况、恐慌に始まり、昭和20年(1945)8月の太平洋戦争终结までであり、その特徴は何といっても、わが国の大陆进出から引き続いた戦争の时代であったという点にある。
戦争は総力戦の时代であり、政治、経済、社会、日常生活のすべてが戦争遂行のために奉仕させられた。そして戦争が终わると、そのすべてが戦争から解き放たれて、全く新しい道を歩むことになった。昭和史はここで180度の転回を遂げる。
昭和元年はわずか1週间で终わり、2年に入ると未决済震灾手形(関东大震灾の被灾地で振り出され、震灾前に银行が割り引いたもの)の処理のため、2法案が议会に提出されたが、その审议中の蔵相発言がもとで、东京、横浜の银行を中心に激しい取付け騒ぎが起こった。震灾手形を多くもっていた台湾银行は整理に入り、そのあおりで叁井、叁菱に迫るとみられていた铃木商店が破绽した。
この金融恐慌のさなかに公布された「银行法」によって、银行界は五大银行时代に移り、产业界でも大资本の地位は圧倒的となった。
金融恐慌の収束后、世界は4年10月、ニューヨークの株式大暴落をきっかけに、史上かつてない大恐慌に见舞われた。このさなか予定どおり金解禁を実施したわが国は、紧缩政策、金解禁によるデフレ効果に加え、世界恐慌の高波をかぶり、深刻な不况に沉み、とくに农村の疲弊は大きかった。
鉱工业生产指数は6年を底に、8年から回復过程に転じている。
このような情势下にあってわが国は大陆における势力の拡大を図り、6年9月に満州事変が勃発した。日中の纷争はさらに中国本土に拡大し、12年には日中戦争となって、わが国は準戦时体制に入った。
国内でも政党政治?财阀不信のなかで、青年将校、右翼などによる5.15事件(7年)、财界人暗杀など暗い事件が続き、2.26事件(11年)を境に军部中心のファシズムの时代となった。
7年に満州国を建国し、これをめぐって8年には国际连盟を脱退、国际的な孤立化を招き、さらにわが国の大陆政策は欧米との紧张関係を高めた。
物资、资金は军需优先の时代となり、12年9月には统制が始まり、13年4月公布の「国家総动员法」は政府に広范な统制、动员の権限を与えるものであった。言论、思想の取缔りも厳しくなっていった。
ヨーロッパにおいては独伊の全体主义国家と英仏など自由主义国家との対立が顕着となり、わが国は15年9月、独伊と叁国同盟を结び、ここに世界は二大阵営に分かれ、第2次世界大戦を戦うことになった。ヨーロッパでは14年にすでに戦争が始まり、16年12月わが国は米英に宣戦布告し、戦火は全世界をおおった。
そして18年にイタリアが、20年に入りドイツ、日本が相次いで败れた。わが国は绪戦の优势がしだいに覆され、20年になると东京はじめ全国の都市は大空袭にさらされて、人、家屋、生产设备とも甚大な被害を受け、衣食もまた乏しく、ついに8月、无条件降伏した。长く苦しい戦争は终わったが、その先には戦后の苦难が待ち受けていた。
建设业も戦时统制下に
昭和の前半は建设业界にとっても激动の时期であった。
大正时代末期に起こった発电所建设ブームは昭和初期まで引き継がれ、4年(1929)ごろまで建设业界にはかなりの工事量があった。一方、社会的には不景気风が吹き荒れて、5年から8年にかけては公司の倒产も多く、大量の失业者を巷にあふれさせていた。
このような状况に、政府は6年から时局匡救失业対策事业を直営工事で行い、请愿によって公共工事を请け负った场合、一定割合の失业者を使用することを义务づけた。これは失业救済には有効であったが、一面、ようやく芽生えた机械化施工の芽をつむことになり、合理化の遅れをもたらした。
今日の「労働者灾害补偿保険法」の原型をなしたといわれる労働者灾害扶助法、同责任保険法は7年1月から施行されたが、强制加入は土木建筑业に限られたため、実质的には土木建筑労働者灾害扶助法であった。この法案提出までには、元请业者に责任をもたせるという当初法案をめぐって业界の反対が展开された结果、业界の意向を相当取り入れた法律となった。
そのころから、业界も急速に戦时色を强めていく。军への协力体制强化のため、建设工事力の集中强化、业界の机构整备などが求められ、実施されていった。
昭和12年(1937)、日中戦争勃発に伴って诸种の経済统制が始まり、10月、鉄钢工作物筑造许可规则が公布され、不要不急の民间建造物に鉄钢の使用が禁止され、14年11月には木造でも100㎡以上の住宅新筑は禁止された。大陆での戦火拡大、日米间の一触即発の事态を受けて、军の动员、军需优先策が强行され、人、物资はすべてそこへ投入されることになり、太平洋戦争に入ってからは、さらにそれが彻底されることになった。
戦争は限りない破壊行為であるとともに、一面では限りない建设、生产力拡充を必要とする。したがって建设业界には极限までの协力が求められ、业界もまたこれに応えた。中国大陆、南方占领地における军用诸施设、军需工场の建设に挺身し、そのために犠牲となった者は当社も含めて少なくない。
日本内地においても事情は同じで、军需工场、飞行场、大规模地下壕をはじめ军施设の建设に繁忙であった。
军ではこうした事态を予测し、15年秋、陆军省出入りの业者を集めて军建协力会设立を言い渡し、16年2月に同会は结成された。海军工事に関しても17年3月、海军施设协力会が设立され、両协力会は军発注施设工事の配分はもとより、统制物资の配给権までいっさいの强力な権限をもっていた。両协力会は后に社団法人となり、さらに20年3月、戦时建设団の発足によって解散した。
一方、业界団体としては16年5月、日本土木建筑工业组合连合会、19年2月、日本土木建筑统制组合が结成されていた。こうした多元的な受注机构を一元化するための戦时建设団の発足であったが、时すでに遅く、间もなく终戦を迎えた。
军工事中心の时代にあっても、国策的な官、民の大工事はいくつか遂行された。黒部川、信浓川各発电所工事、17年6月贯通の関门海峡トンネル工事、东京、大阪の地下鉄工事などがそれである。
やがて20年の终戦の混乱を経て、业界は戦后の復兴にいち早く立ち上がっていくのである。