転换する时代を迎えて
昭和45年(1970)に始まるこの时期は、まさに“黄金の60年代”(1960年代、昭和35~44年)が终わり、新しい70年代の夜明けの时期であった。60年代は“黄金の”と形容されたように、日本をはじめ自由主义诸国の経済は、几度かの曲折があったとはいえ、この时期に着しい成长を遂げ、繁栄を謳歌した。
しかし、45年を境にわが国の経済はその流れを変え、「転换の时代」へと移っていった。わが国をめぐる国际政治の面でも、46年に冲縄返还协定が调印され、47年には冲縄の本土復帰、田中内阁による日中国交回復が行われるなど、“戦后”の决算といわれる出来事が続き、时代の変化を感じさせた。
40年不况を赤字国债と输出をテコとして脱出して以来、45年7月まで実に57カ月に及ぶ长期好况は、神武、岩戸を上回る「いざなぎ景気」と呼ばれ、大阪で开催された日本万国博覧会はその掉尾を饰るイベントとなった。当时、自由主义诸国のなかで、わが国と西ドイツの国际収支の黒字基调は目立っていたが、こうした黒字基调のもとで、44年9月、金融引缔め策がとられ、45年秋まで続いた。従来は「景気上昇→输入拡大→国际収支悪化→金融引缔め→景気后退」というパターンが繰り返されたが、今回は全く条件が违っていた。
戦后初の异例の国际収支黒字下の金融引缔めは、国内景気の过热、物価の上昇を抑制するための措置にほかならなかった。景気调整策の効果が浸透し、45年夏には景気后退が明确となり、日本万国博覧会が同年9月に终わると景気にも秋风が吹き始めた。日本と同様、长期好况を続けていたアメリカが対日贸易赤字のため保护贸易的政策をとり始めたのも大きく影响した。繊维、テレビ、洋食器などの输出规制が表面化し、対米贸易黒字を続けるわが国との间の経済関係は紧张し、他产业もその影响を免れなかった。同时に国内でも、それまでの高度成长の牵引力であった自动车、家电等の売行きは钝化し、金融引缔めの効果と相まって、景気停滞感が强くなった。
また、高度成长の“ツケ”といわれた公害问题はすでに喷き出していたが、このころからますます表面化して国民の関心を集め、高度成长、产业优先政策に対する反省の気运も高まった。
“GNP”は45年の流行语の一つになるほど国民の関心をひき、「くたばれGNP」の言叶も生まれた。45年の『経済白书』も「70年代は転换の时代」と位置づけ、产业优先から「高福祉経済の基盘としての产业构造」への転换を强く要请した。
建设业界は好况の余热続く
景気后退の波はしだいに各产业に及んでいったが、建设业界がその波を受けるのは、かなりのタイムラグがあった。昭和44年度(1969年度)の建设投资は対前年度比22.9%増という高い伸び率であり、45年度のそれは16.8%と钝化したものの、依然として15%以上の高い伸びを示していた。46年度に13.9%とさらに钝化したとはいえ、まだ高度成长の余热のなかにあった。47年は一転して列岛改造ブームが巻き起こるのである。
景気を反映する民间建设投资は、45年度に対前年度比14.6%増の再成长の后、46年度は8%増へとスローダウンしている。民间建设投资额の建设総投资额に占める割合は45年度66.2%であったが、46年度には62.7%と低下した。代わって公共建设投资は、45年度21.5%増、46年度25.6%増ときわめて高い伸びであった。また、46年度の公共建设投资の対前年度比を建筑、土木别にみた场合、建筑12.9%増に対し土木は30%増であった。公共工事の内容も、新干线、高速道路などの产业基盘づくりや下水道などの生活基盘づくりを目指すもののほかに、各地の土地再开発や筑波研究学园都市、多摩ニュータウン建设等にみられるように、その范囲が拡大、多様化し、规模も大きくなった。
これは、政策が経済成长第一主义から福祉重视、民生重视へと転换し、社会资本の充実にもより一层の积极性を示すものであったが、また建设业界に対しても新たな指标を与えることとなったのである。