技术革新がもたらした施工能力の着しい増大により、国内の建设需要を満たしてなお余裕を生じた业界には、赔偿工事に先立ち、すでに海外市场に目を向ける动きが现れていた。昭和30年(1955)2月、海外建设协力会が设立され、会长に参议院议员青木一男氏(元?大蔵大臣、大东亜大臣)、その后副会长に当社大林芳郎社长が选ばれたが、海外工事への意欲は赔偿工事の実施によってさらに高まった。しかし、赔偿や経済开発协力に関する工事は国家事业で、代金决済の不安がなかったのに対し、それ以后の海外工事は、すべて业者自身のリスクにおいて、激烈な国际竞争下で行わねばならなかった。
わが国の建设业者の海外进出は第2次世界大戦によって中断され、国际的にみて甚だしく立ち遅れていた。政府もこの情势に注目、建设业の海外进出に积极的な姿势を示し、39年2月、建设省が建设业者の海外进出対策を打ち出したのをはじめ、40年2月には业界代表として大林芳郎社长を输出会议の构成员に加えた。また、海外工事の情报を入手するため、建设省は各地にアタッシェを常置する処置をとった。
当社は31年2月には东京支店に海外工事部を新设し、役员はじめ中坚干部を次々に东南アジア各地に派遣、市场调査を行った。この时期の海外工事部の活动は、近い将来、発展途上国の开発に协力する日を见越しての準备であったが、前记の赔偿、协力工事を行ったことにより、现地の事情について具体的な手がかりを得ることができた。
37年9月、东京支店海外工事部を廃し、本店机构として新たに海外工事部を设けた。続いて38年7月、大林社长は河田明雄取缔役を伴い、东南アジア诸国を歴访し、现地事情を视察した。その结果、最初の拠点をタイに设置することとして、39年4月、わが国建设业者の常驻第1号としてバンコックに驻在员事务所(初代所长茂野湘二)を开设した。このとき受注したAIA(アメリカン インターナショナル アシュアランス)ビル新筑工事は、当社が商业ベースで行った本格的な海外工事の最初であった。その后40年代半ばにかけてタイ、シンガポール、インドネシア、マレーシアなどで幅広く事业展开を行った。
また41年に初めてハワイに进出し、ホノルルのサーフライダーホテルの建设特命を受けるとともに、同年4月外国会社としての営业登録を行った。これら海外工事においては、现地の地域开発に协力し、现地住民との交流を进めるなど国际亲善に努めた。
イホープカ(IFAWPCA)の创立
昭和31年わが国の国连加盟を机として各方面の国际交流はしだいに活発となり、建设业界でも同年3月、フィリピンで汎アジア建设业者会议が开かれた。日本、台湾、韩国、香港、フィリピン、マレーシア、南ベトナム、オーストラリア、ニュージーランドが参加し、日本からは当社大林芳郎社长、清水建设清水康雄社长ら13名が出席した。この会议でアジア?西太平洋建设业协会国际连盟(IFAWPCA)が创立され、同连盟は33年3月、第1回総会をフィリピンで开催したのをはじめ、以后参加各国で大会を开催、38年の第4回大会は东京で开かれた。
当社からは毎回社长あるいは役员が出席、42年の第7回大会(ニュージーランド?ウェリントン)では、1966年度IFAWPCA建设业者赏の金赏を受赏した。