大林組旧本店ビルは、時代の節目にあって、建筑界における尖端を示した建物であった。
ひとつには构造での取り组みがあった。1923(大正12)年9月、関东大震灾によって帝都が壊灭的な打撃を被る。専门家たちは耐震耐火性能に优れた鉄筋コンクリート构造の重要性をあらためて确认する。
大阪にあっても、百貨店や賃貸オフィスビル、ターミナルビルなど、数階から10階建て程度のビルディングを建設する動きがさかんになった。建設会社がそのノウハウを得ることを要請されたのは当然のことだろう。旧本店ビルの工事にあたって、大林組は社員をアメリカに派遣し最新の建筑工法と建筑機械の導入に力を入れた。
いっぽう意匠面にあって、同时代の流行を採択したという点にも注目したい。土佐堀川の畔にあるモダンなビルディングは、大阪で创业した同社にとって、四代目の社屋である。腰壁には竜山石を用い茶色のタイルを张った外観は、1926(大正15)年6月の竣工时には、界隈のランドマークとなったことだろう。
细部の装饰に目を向けて欲しい。上方部の両端にテラコッタの円形レリーフを掲げ、ラテン语で纪元1926年と竣工の年次を刻んでいる。なかでも入り口周辺の构成が、细部意匠の见どころだ。叁连のアーチ风の意匠で正面中央の各阶の窓を囲いこみ、随所に纹章风の意匠を配置する。左右の鷲が来访者を出迎えてくれている。インテリアの装饰にも、さまざまなモチーフが採択されている。エレベーター上部には、花と人面の鸟をかたどったアールデコ风の装饰がある。旧役员食堂はカタロニア风、壁には中近东の诸国を思わせる模様や舵轮のレリーフがあった。要所に据えられた彫刻は、中国p站设计部に所属していた彫刻家大塚尚武の作品である。
外観には当时、アメリカで流行していたスパニッシュ?スタイルの影响をみてとることができる。意匠设计を担ったのは、设计部员であった平松英彦である。会社の象徴となるビルはどのような姿がふさわしいのか。小田岛兵吉がまとめた平面计画に基づいて、社内で设计竞技が行われた。审査の结果、毛利泰叁、木村得叁郎たちの案を凌いで、平松の作品が一等に选定された。
一期生として京都帝国大学工学部建筑学科に学んだ平松は、在学中から大林組で実習した経験もあって、卒業後、入社する。師である武田五一ゆずりなのだろう、スパニッシュ?ミッション風のデザインを得手とした。もっともスパニッシュ?スタイルの案が選定された背景には、1921(大正10)年に米国に外遊した当時の副社長大林賢四郎の好みであったとも伝えられている。
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1926(大正15)年、営业室の勤务风景
1920年代から30年代、建筑の分野は、あきらかな転機を迎えていた。欧米から、従来の様式を打ち破るような新しい建筑デザインの潮流が紹介される。それだけではない。工業化に対応した新たな建材の登場、高層化と耐震耐火に呼応した構造、そしてそれまでになかったビルディングタイプへの挑戦などが要求された。大阪も例外ではない。関西の建筑ジャーナリズムにあって、「昭和維新」という表現が用いられたほどだ。旧本店ビルは、まさにその時代の産物である。
もちろん優れた建筑には、それが竣工した時代の流行、ひいては人々の価値観が、そのままに託されている。旧本店ビルが竣工した当時、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる産業都市であると同時に、「日本の米国」とたとえられるほどに豊かな消費都市でもあった。
タイル張りの旧本店ビルは、今日の都市にあってはいささか渋く、落ち着いて重厚に見えるかも知れない。しかし竣工時の気分に立ち返るならば、このビルを目にした人々は、じつに新しく、華やかな印象を持ったのではないか。米国に学んだビルディング建筑の存在感に、私たちはこの都市が「大大阪」と呼ばれた繁栄の時の記憶を呼び覚ますべきだろう。
歴史的な建造物を眺める時、私たちは懐旧的になりすぎてはいけないのではないか。先人たちの息遣いや建物にこめた想いを、当時の人々の立場に我が身を投影して、確認することが大切だと思う。真に良質な建筑は、都市の過去と現在、そしておそらくは現在と未来とを繋ぐ役割をおのずと担っているのだ。
橋爪紳也(はしづめ しんや)
大阪府立大学21世纪科学研究机构教授/大阪府立大学観光产业戦略研究所长、
大阪市立大学都市研究プラザ特任教授、桥爪総合研究所代表(以上、2009年11月现在)
着书『モダン都市の诞生』、『创造するアジア都市』ほか多数