本居宣长の空想都市「端原氏城下絵図」を読み解く
想定復元:大林プロジェクトチーム
ここからは、プロジェクトチームによる読み解きによって明らかになった事実と、それに基づく推测の过程を详しく见ていくことにしよう。
1 江戸时代の新しい都市
端原氏城下絵図」中央部に描かれた「御所中」の主は、「端原氏系図」によると、15代当主の宣政である。では、城主の宣政は、どのような时代に、どのような街を治めたのだろうか。
系図によれば、端原氏はもともと「胜山氏」という氏族の家臣であった。「端原氏城下」成立の3年前、道房元年に宣政の五男である政广が戦死しており、ほかにも戦死者2名、诛杀者1名の记録がある。そして宣政の説明として、道房3年に「国中一扫静治泰平」と记されている。つまり3年前には戦があったが、宣政が1年前に戦を终わらせ、胜山氏に代わり国?城下を平定して治めていることが読み取れる。
端原氏は、もとは别の领地を治めていたが、戦乱を収めて新たに端原氏城下を兴した。安定した平和な世の中になって、この地に新たな理想の街をつくろうとしたのではないだろうか。
ほかに、系図からは、①端原宣政の侧室に町人の娘が2人いることから身分制が强固な时代とは考えにくいこと、②「端原」の名字は宣政の14代前の先祖が领地の名前をとって名乗りはじめており、地名を名字とするようになった鎌仓时代から相当の期间が経过していることが読み取れる。さらに絵図を见ると、堀や河川の一部が石垣で护岸されているが、これは江戸时代以降に用いられる技术である。
以上のことから、プロジェクトチームは时代背景を本居宣长の生きた江戸时代中期と想定した。
【端原宣政略年谱(端原氏系図より作成)】
| 亲安4 | 宣政诞生 | |
| 亲安10 | 北御方(宣政正室)诞生 | |
| 亲雅13 | 北御方と结婚 | |
| 亲雅14 | 家督を継ぐ | |
| 亲雅15 | 长男?宣繁诞生、母死去 | |
| 亲重4 | 森崎に领地を赐り邦客に准ずる | |
| 亲广元 | 合戦が起こり、大侍の九田义长が戦死 宣政は侍従に昇进 |
|
| 亲国2 | 少将に昇进 | |
| 道房元 | 合戦が起こり、宣政の息子端原政广、大侍浅山徳宗、 大侍藤仓忠光、御邦客の一族大井真茂が戦死し、 御邦客の一族和崎惟兼が诛杀される 宣政は中将、次いで宰相に昇进 |
|
| 道房2 | 北御方死去 | |
| 道房3 | 国中一扫静治泰平 | |
| 正元 | 前君主の长森殿に代わり城主となる |
2 计画された都市
计画的に设定された市街地のゾーニング
「端原氏城下絵図」中央部に描かれた「御所中」の主は、「端原氏系図」によると、15代当主の宣政である。では、城主の宣政は、どのような时代に、どのような街を治めたのだろうか。
まず一见して気づくのが、城主が居住する「御所中」を中心に、市街地全体が武家地、町人地、寺社地、さらに郊外の农地など、机能ごとに明确に描き分けられている点である。
武家地に関しては「端原氏系図」に记された内容をもとに、「御分家」「御邦客」「御大侍」など身分の高い武家が堀と塀によって囲まれた「御所中」の南侧(郭内)に配置される一方、その北侧には下级武士の屋敷が密集して描かれている。そして、その南侧と周囲に町人地、都市の周縁部には寺社地が広がる。
実际の城下町でも、武家地、町人地、寺社地等に区分されているが、地形や既存の土地利用による制约からここまで明确になっていないのが実状である。
これらのことから、端原氏城下は入念に计画された街づくりが行われたと推察される。
【ゾーニングと人口想定】
正确な碁盘目状に整备された居住区
端原氏城下は、南北?东西に一直线に伸びる通りによって碁盘目状に区切られ、それぞれの通りにすべて名前がつけられている。ちなみに同时代の城下町では、通りが正确な碁盘の目になっていないことも多い。例えば、宣长の故郷の松坂の通りも碁盘目状ではなく、后に随笔『玉胜间』において「町すぢゆがみ正しからず」と表现している。また、彼が町割りを参考にしたと思われる憧れの京都も、碁盘目状ではあるが斜めや曲がった道もあり、これほどまでに直线的な通りで构成された街は现実には存在しない。
また、当时の京都図などは縦と横でスケールが异なり、本来正方形の街区が长方形に描かれたり、通りの名前が书かれていないこともあったが、「端原氏城下絵図」のスケールは縦と横が同一で、すべての通りの名前が书かれているため、当时の京都図などと比べ、正确に都市を表现した地図であると言える。
さらにプロジェクトチームが通りの名前をすべて洗い出し、松坂や京都にある通りと照らし合わせた结果、京都と同じ名前の通りは「扇丁」「カミヤ丁」など数箇所あったものの、松坂には実在しない名前ばかりであることがわかった。京都への憧れを持ちつつも、実在の都市名を避け、独自の街を计画していたように思われる。
端原氏城下の都市规模と居住人口の推定
プロジェクトチームは、端原氏城下の市街地の规模と居住人口の推定を行った。まず取り掛かったのは「端原氏城下絵図」の缩尺の解明である。地図上には以下の3カ所のみ距离が记されている。
- ①杉野~玉垂嶋舟渡までの距离
- ②新园﨑八幡宫东侧の舟渡から玉垂嶋舟渡までの距离
- ③歌仙桥の长さ
このうち①②については、当时の地図が市街地から离れた周辺部ほど、距离の表现が正确性に欠ける例が多いことから、缩尺に基づかないノンスケールだと判断した。そこで③の実测値を採用して「端原氏城下絵図」の缩尺を约6,200分の1と设定した。缩尺から算出した市街地の面积は东西に约3办尘、南北に约2办尘の约6办尘2で、现在の东京都千代田区の半分程度の规模である。
【缩尺の検讨と町屋配置図】
一方、町人地では、武家地(上级)南侧の町人地に多く见られる正方形の街区を一街区と定义づけ、その规模を算出したところ、一街区约9,000尘2(约95×约95尘)、当时の长さの単位に换算すると约50间となった。当时、江戸や京都の町割りは约60间となっており、江戸や京都に比べてコンパクトな街区として计画されていることが缩尺から判明した。なお、名古屋では约50间の町割りが存在している。
町人地では、通り名以外の表记がなく、空白になっている。当时の地図では町人地の详细を细かく书かないことが一般的であった。
江戸时代の町人地の街区には、中央部に会所地と呼ばれる空き地が设けられ、通り沿いに町家が配置された。中央に道路が通っている街区や寺社が建つ街区も存在するが、これは、空き地に道路や寺社などが计画されることが多かったためである。一方、有力な町人の住む街区の空き地では新たに公共的な施设が建设されることが回避されたと考えられる。
人口については、江戸时代の一般的な建物の大きさを踏まえ、当时の平均的な居住人数をそれぞれの街区に当てはめて算出した。こうして町人地の一街区には200~380人が生活していると仮定し、町人地の约220街区にこの数値を适用、合计4万5,000~8万5,000人の町人が暮らしていると推定した。
武家地における居住人口も同様の手法で算出を行った。上级武士が居住する郭内では、江戸时代の彦根藩士の家族构成资料や系図に记载のある石高を参考に约8,000人と推定した。下级武士のエリアについては、各区画内に记载された屋敷の戸数に基づき、各戸4人が住んでいると仮定して、居住人口を约1万人と算出した。
これらの结果から端原氏城下の市街地の総人口は6~10万人と推定された。また、1730年の京都の洛中の人口から人口密度を计算し、この地図のエリアに当てはめたところ、约8万8,000人という结果が出た。二つの别のアプローチで导き出した値が近いことから、プロジェクトチームはこの推定人口が妥当であると判断した。
この人口推定作业の过程で、缩尺のスケールに従って、各街区に当时の标準的な大きさの町家や武家屋敷を配置したところ、そのほとんどがピッタリと区画内に収まった。
このことから、宣长が道の幅员や街区、人口规模等を緻密に计画し、さらに当时の武家屋敷や一般家屋のサイズ感を正确に把握したうえで、居住区画を精密に设计していたことがうかがい知れる。宣长の都市计画が正确に表现された地図であると言えるだろう。
君主宣政と城下の位置についての考察
君主である宣政は、どのような地位の大名なのだろうか。系図に记された家臣の石高は合计28万石であり、领地は22郡にまたがって存在している。そこから推定される宣政の石高はおよそ50万石から90万石で、宣长の住む松坂を治めていた和歌山藩、あるいは和歌山藩と同じ御叁家の尾张藩あたりの大名と同等と考えられる。人口の面から见ても、尾张藩の城下町である名古屋が10万人弱で、6~10万人ほどと推定される端原の人口と同じかやや上回る程度の规模のようである。
端原氏城下がどのような场所に位置するかについては、港より二里半という表记があり、海から10办尘ほど离れていることがわかる。川の流れの方向から、海は地図の左侧、西方向にあると思われる。
一方、そこが日本のどの地方にある想定なのかはわからなかった。手がかりは、山间部に针叶树林と広叶树林、それに梅や桜の木が描かれていることである。これらが同时に存在することから、极端に寒い北国や、针叶树林の少ない南国は除外できるが、日本の大部分の地域が该当する。
宣长は后年、松坂の所在する伊势国を「暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚だしからず」と评しており、こうした温暖で过ごしやすい地域を想定していた可能性が高い。
狈辞.64「地図」
地図は、人を未知の世界へと诱い、人はその一枚にワクワクさせられます。
私たちは、古くは岩に掘られた地図や歴史上の古地図、现代では卫星によるデジタル地図まで、様々な地図によって世界を认知してきました。世界の形や全体像が视覚化されるだけでなく、时には空想の世界が地図上に构筑されることもあります。
本号では、様々な地図を题材に、人々がどのように世界を観ようとしてきたか、何を観ようとしているのかなどを考察します。大林プロジェクトでは、国学者、本居宣长が19歳のときに描いた架空の都市図「端原(はしはら)氏城下絵図」の読み解き、立体復元に挑戦しました。
(2025年発行)
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