日本人と食、农业の歴史
原田信男
基本的に、日本の古代国家は、畑地を重视せず水田志向を强めて、コメを财政や経済の基本とする政策を推し进めてきた。そしてコメのために肉食を禁じたことから、动物性タンパクの摂収は鱼に求められた。コメと鱼に象徴される日本の食文化は、こうした国家的な政策によって形成されたことに留意しておく必要があろう。これを受けて中世には、武士を中心とした水田の开発も盛んに行われるが、现実には畑地や山野河海が食料の获得に大きな役割を果たしていた。浄土宗の法然や浄土真宗の亲鸞が庶民の肉食を许容したのは、そうした事情によるものであった。
しかし膨大な荘园を拥して、そこからのコメ年贡に依存していた公家や寺社家あるいは高级武家は、ムギ饭には眼をそらすほどで、コメ中心の食生活を当然のこととしていた。これに対して社会の下层では、肉を食したり、雑穀やイモ类などで食を维持していたが、歴史の大势としては、肉を否定してコメを至上のものとする価値観が浸透していった。农民たちは大唐米?唐法师などというインデイカ种のコメを导入して、干害や水害に対処したり、摘田という直播田や湿性の强い掘上田を造成して、コメの生产力の向上に努めた。中世村落の信仰の核となる宫座の行事にも、コメの祭祀に関わるものが多く、コメ志向は中世を通して社会全体に広まっていった。
(住吉神社山口県下関市)
(林罗山旧蔵本/国立公文书馆)
そうした歴史の流れの结果、戦乱の世が统一された后に登场した江戸幕府は、强力な中央集権国家として、古代律令国家の理念を継承しコメを基本とした経済システムを完成させるべく、石高制社会を成立せしめた。日本全国の耕地の全てを、コメの见积り生产量に换算して把握し、それぞれが所有する石高をもって、大名や农民さらには村の経済力を示す指标とした。つまり加贺百万石といえば、金沢藩前田家の领地を全て合わせて、これをコメに换算すれば、100万石の生产能力を有していたことを意味する。まさにコメは経済の基本となりコメを至上の価値とする社会システムが完成をみたのである。
一方、中世を通じて进行した肉食の否定は、近世に最高潮に达し、肉を食べると口が曲がるとか、眼が见えなくなるとかいう俗信が広まっていった。代わりに、コメは力の源と信じられ、仏舎利や菩萨にたとえられて、その圣性を高めていった。それゆえ大规模な土木工事を伴う新田开発が进行し、水田の着しい増加がみられた。中世までは在村していた武士は家臣団として城下に集住し、农民のみが构成する行政村落が成立し、农业の集约化が进んで、质?量両面で生产力が向上をみた。
ただ享保から延享年间(1716-48)顷と推定される「町歩下组帐」(『大日本租税志』所収)によれば、18世纪前半顷の総田畠面积は、対马国を欠くが约2,960,552町歩で、うち水田约1,643,447町歩、畠地约1,317,105町歩となっており、水田畠地の1.25倍で、水田がやや上回るに过ぎない(下表)。古代末の平安期に较べると、水田はほぼ2倍近くに増加しているが、これは近世初头以降の本格的な新田开発によるものと考えられる。地域的には、西国では水田が多いが、东国では畠地が卓越する倾向にある。现実には畠地の方が多い村もあり、近世においても畠地の持つ意味は决して少なくなかった。
原田信男(国士舘大学21世纪アジア学部教授)
1949年栃木県生まれ。明治大学文学部卒。同大学院博士后期课程修了。史学博士。札幌大学女子短期大学を経て现职。ウィーン大学日本学研究所、国际日本文化研究センターなどの客员教授を歴任。1989年『江戸の料理史』でサントリー学芸赏を受赏。着书に『歴史のなかの米と肉』『中世村落の景観と生活』『江戸の料理と食生活』(编着)など多数。
狈辞.59「农」
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(2019年発行)
